テーマ:戦前

八甲田山と十和田湖の旅

今回は、昭和12年、晩秋の八甲田山と十和田湖を旅した記録である。  上野駅を夜行で出発、青森から省営バスの一番に乗り、最奥の集落雲谷(もや)で、いったん途中下車し、景色がいいので萱野茶屋まで歩く。この間の風光は実にすばらしい。とくに雲谷峠から見る青森湾、途中の岩木山の展望、萱野高原の草一面の高原、八甲田山の全容など…
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鳩ノ湯まで

 前回の、「玉川林道をへて八幡平へ」からの続き。  翌日は密林を潜って玉川を進む。ちょうどこのあたりから森林鉄道の出来上がった路盤にレールを敷き始めていて、多くの土工が仕事に励んでいた。彼らは全国から狩り集められて来た囚人だそうだから用心して行くようにと、宿で注意された。道はこの路盤の上を通っているので土方たちのあいだ…
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玉川林道をへて八幡平へ

 「秋田駒ケ岳と田沢湖」からの続き。  八幡平をめざし、翌日、朝早く宿を発つ。玉川に出て川沿いに上流へと歩く。もの凄い原始林のなかだが、道は森林鉄道の工事中で、線路に沿って歩けば迷うこともなかった。しかし、前の日の強行軍で、とても鹿ノ湯(玉川温泉)までは無理で、最奥の部落玉川へ行き、そこの一軒家に頼んで泊めてもらう…
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馬頭刈尾根縦走

 昭和13年の五日市周辺の山は静かだったのだろうと記述を読んで想像するのだが、東京に住んでいらっしゃる山好きの人にはいいコースの山だと思う。ことに中高年のハイキングにお孫さんを連れて歩くのには最適だろう。冬こそ子供連れでは往生かもしれないが、これからの桜の季節にはいい思い出になること請け合いである。末夫さんは晩年歩けなくなってから車で行…
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秋田駒ケ岳と田沢湖

昭和12年7月、末夫さんは妹を連れて秋田駒ケ岳と八幡平へ出掛けた。 時代は年を追うごとに窮屈になって来ていたが、それまでの多くの旅の楽しかった思い出が忘れられず、意を決して遠出を試みた。 そしてこの旅もまた、忘れられない思い出になった。 まずは例によって、「汽車が好き、山は友だち」から抜粋してみよう。  上野…
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汽車が好き、山は友だち

当ブログは今のところ70年以上も昔の記録をアップしている。 10年ひと昔というが、内容はかなり古い。 現在は昭和12年~14年にかけてのものを追っている。 それでも、軍靴の足音が響き渡る時代の記録を遺す作業は重要だとの認識の元、作業をやめるわけにはいかない。 では、いつものように末夫さんの文章を見てみよう。 時代は昭和…
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籠ノ登山 四阿山縦走

もう二十年も前のこと、籠ノ登山へ登った。 当時は温泉巡りばかりしていた。 初秋の平日、高峰温泉に宿泊。 快晴の翌朝に見た山容が魅力的に映った。 それは水ノ塔山と籠ノ登山が一体になって、登行欲を激しくそそるものだった。 両山の稜線歩きは、さぞ気持ちが良いだろう。 急遽、宿に弁当を作ってもらい…
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試行錯誤その2

末夫さんの原稿ファイルを見ていると、その中に以下のような「目次」がある。 昭和11年から14年にかけてのものだ。 以後も旅は続くので、14年の後半に一度、それまで書き溜めた原稿を整理したことが判る。 こちらはそれを元に、順次ブログへアップしているのだが、それでも原稿は目次通りには保存されていない。 これが混乱の原因で、エント…
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浜街道日帰りサイクリング

此のコースは浜街道の道が余り良くないのが欠点であるが、途中に大小の湖沼や河川が有り、且つ丘陵の中を行くので仲々景色がよい。 日帰りは一寸強行だが、土曜から一日半の旅としてはよいコースで有る。 こうして前回と同じコースを、今回の末夫さんは自転車で走る。 以下に本文を転記するが、その内容もほぼ前回と同じであ…
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陸前浜街道ハイキング (第一回 牛久迄)

浜街道は東京千住より出て、土浦水戸平を経て太平洋岸に沿って仙台に入る陸羽街道とともに昔の要路で、一名水戸街道とも云った。此の道は途中に大小の河川や湖沼が有り、且つ丘陵帯やら海浜を行くので、途中の風景は可成り良い。今街道に点在する多くの名所古蹟を探りつゝ此の道を歩いて見よう。 から始まる今回の徒歩旅行の、上に…
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足利~東京間を十九時間で歩く

 私は幸か不幸か丙種合格で、兵隊には無関係だったが、非常時という言葉が日常用語になった昭和十一年、これからさき世の中がどうなるかわからないと思うと、いざとなったら十里(約四〇キロ)や二十里は歩ける足腰にしておきたかった。そこで足利-東京間(八五キロ)を昼夜兼行で歩けるかどうか試してみようと思い立った。  そのことを役所の先輩たちに…
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昭和十二年

今回の記事で記念すべき100回目のエントリーになる(たぶん)のだが、記念といっても、花を飾ったりケーキにローソクを立てたり、Mロードで提灯行列をしたりなどの特別な記念行事はせず、いつも通り淡々と進めていく。 さて、時代は戦前の昭和で停滞したまま、当ブログは遅々として進まない。 それもこれも、すべて忙しさを口実にできるのだが、…
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成田不動 小御門神社 香取神宮初詣り

正月になると私達は末夫さんに連れられてよく成田山に初詣に出かけたものである。何故成田なのかは聞いたことがなかったが彼はこれ以前にもよくこの地を訪れていた。今では成田空港もあって悠久の大地という訳には行かないが私が子供だったころの成田は何処となくゆっくりした風景があった。正月に新しい服を着せてもらって母や兄とゆくバス旅行は楽しかった。小…
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大宮 岩槻 粕壁サイクリング

 大宮や岩槻にはたくさんの友人が住んでいてその地区の70年前がどんなだったかを教えてやろうと思う。もっとも板橋や千住辺りも田んぼの中だったというのでは昭和12年の東京や近郊は今と同じように区別がつかない情況なのだろう。末夫さんは当時としては安くなかった自転車を中古で購入して得意満面で走っていたようだ。もっとも自転車は実用自転車で今では築…
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残雪ノ女峯登攀

1992年に出た末夫さんの「汽車が好き、山は友だち」ではこの残雪ノ女峯登ハンを軽くまとめていたけれども、原本の記述を読んでみると6時間半の登山、それも独立峰では大変であったと感じた。以前会津駒からの下山中残雪で道が分からなくなって心細い思いをしたことがあった。ここで云う「道に迷う」ということも同じことだろうと思うのだがひとりでのそういっ…
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出雲大社参拜 (西国三勝巡り)

 二十年ほど前になるけれど京都から山陰線の普通夜行列車があって一両の寝台車が付いていた。関西には他に大阪から紀勢本線にもそんな夜行普通列車があった。関西の発想でなかなかいい列車だったけれど東北方面にはそんな気の利いたサービスはなかった。その列車に乗って松江までだったか?行ったことがあった。出雲大社は国造りの神様で八百万の神の元締めと思っ…
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丹沢主脈縦走

今回は私にも懐かしい丹沢なので、楽しく綴ろう。 昭和十一年五月の山行だ。  丹沢山塊は私の好きな山だったが、国鉄の利用だけでは不便で、その情報も乏しく西部丹沢は未開の山として安心して登れなかった。初めて登ったのが昭和十一年五月で、相模線橋本駅より道志街道を夜通し歩き、途中、長野の集落で半泊し、翌早朝出発。焼山、姫…
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昭和十一年

昭和8年の暮れから始まった末夫さんの近畿以西の旅は、まだこれから出雲大社、福山と続くのだが、この辺りで当時の時代背景と、末夫さん自身の行動を追ってみよう。 昭和9年の正月を山口県の岩国で迎えた末夫さんだが、自宅では関東の地図を広げ、近場の手頃な山を探しては小まめに出掛けていた。 日帰り圏の主だった山は登り尽くした感があり…
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天の橋立見物 (西国三勝巡り)

あんまり西国には旅費のこともあって旅をしたことがないのだがそれでも何回か行った記憶がある。ここも一度訪ねた。股のぞきはしなかったが今となれば世間体を気にせずやっておくべきだったと思う。私の観光客としての姿勢はいつもこうだ。見栄っ張りでお高く留まっていて多くの観光客のすることは見ないようにして。若かったといえばそうだが可愛らしさのかけら…
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街道ヲ行く

昭和10年4月3~4日  街道ヲ行くというとあの司馬さんの名著であるけれども、これは日光例幣使街道と会津西街道を昭和10年の冬に歩いた記録であります。本文中にもあるように末夫さんは昔の街道を旅することにあこがれていてこの街道のそのころのたたずまいが如何にも江戸時代のような風情だったと話しておりました。この紀行文を読むと格好のいいこと…
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中央アルプス木曽駒ケ岳登山

木曽は末夫さんの父親が生まれたところで慶応3年生まれの彼は明治20年代になって木曽を出帆して東京に出たようである。養子に行った先からの出帆であったせいか木曽の親類に負い目があったのか後年融通したお金を返してもらえなくてそれ以後木曽と縁を切ったようである。それだけ末夫さんは木曽に思いがあったようである。後年何回か兄と3人で旅をしたことが…
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八海山登山

 越後山脈と三国山脈が合うところに越後三山がある。この三つの山は長大な越後山脈の始まりの瘤のように聳え立ち私のような未熟な登山者は眺めるだけでいいのだが、それでもこの八海山はどうにか登れそうである。といっても梅雨明けの頃にであるけれども。今は十二峠から魚沼スカイラインをゆっくり走りながら眺めた方が云いようだ。今回地図を見てみるとこの秋山…
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妙高山登山

 一回友人とふもとの温泉まで行ったことがあってそれがどこだかちょっと思い出せないのだが、どうも赤倉温泉ではなかったかと思う。その時山頂まで8時間と道標にあったことを覚えている。友人は大変な山だよと云い私は「遠いな」と思った。あれから行ってはいないがそれは妙高山の山容にある。外輪山の上に巨大な三角錐のようなその姿を見たときそこを登る己が姿…
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猿橋 岩殿山 天目山巡り

確かに車窓から猿橋を見た記憶がある。ほんの一瞬だが昭和40年代には見えた。今はそんな一瞬の為に目を凝らす人はいないだろう。その後で初鹿野(今は甲斐大和)から天目山栖雲寺、田野鉱泉を歩くのは大変だなーと思う。末夫さんは片道二里というが車で行ったときは随分時間が掛かったような気がするのだ。共青とは共産主義青年同名…
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宗吾 成田 三里塚 芝山巡り

宗吾霊堂、成田山新勝寺、香取神宮周辺は、末夫さんが繰り返し訪れた馴染みの土地である。 急に思い立って、上野の自宅から簡単に行けたことも大きな要因だろう。 この昭和9年は、7年の5・15事件や11年の2・26事件の狭間の年であり、国内の政情はカオスへと流れ、庶民もこれからの国の先行きに漠然とした不安を抱いていた時期だった。…
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浅間山登山

ご承知の通り、浅間山は深田久弥が選んだ日本百名山のひとつである。 百名山ブームは中高年を中心として今も続いている。 ある程度の基準を設けて選定した百峰ではあるが、これはあくまで深田の主観に基づいて決めた山々で、個人によってその価値基準や判断は違う。 しかし大多数の人は深田の百峰を絶対のバイブルとして、他に数多ある山には目も…
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牛久女化稲荷

昭和初期の失業地獄から昭和五年の世界大恐慌と、時代は不況の嵐に見舞われていた。 当時の日本の主幹産業である生糸の価格暴落、都会で見つけることの出来ない就職口に見切りをつけ、失業者は農村に仕事を求めた。 しかし皮肉にも豊作による米価下落、絵に描いたような典型的な豊作貧乏。 野菜農家にしても、キャベツ50個で煙草の「敷島」1箱の価…
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鷹ノ巣山登山

鷹ノ巣山は確かに雲取山と比べると魅力に乏しいのだろうが氷川からピストンで登るには高い山である。山に登る人はこういった馴染みの山を作っておくと自分の体調のバロメーターになることと思う。そういった意味ではいい山である。
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常陸三社巡り

常陸三社巡りは昭和40年代に父と伯父とその従兄弟と私で中古のカローラで出掛けたことがある。その時湊鉄道(茨城交通湊線)が在ったかというのは定かではないが大洗磯前神社と酒列磯前神社は静かないい神社だったことを覚えている。祭神は同じ大己貴命、少彦名命で大洗、酒列と並び称されていて漁家の尊敬が厚いという。大洗は昔の面影がないくらい変わってしま…
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中仙道ハイキング

思うに今私は59歳になっていてこの記事を書いた私の父はまだ24歳だったことに驚かされる。私には子供がいないけれども甥っ子にしても30歳になって末夫さんの上を行っているのである。若かった父が何を探して歩いていたのかこの二通りの紀行文を見ていてよく分かるように思う。記録として見たはじめの文章と何だか息切れしてしまった紀行文としての「中仙道ハ…
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