闇市とスピード籤と白いコッペパン

 こんな苦しい世の中なのに、追い討ちをかけるように、私の家で同居することになった妹の主人の戦時中から勤めていた統制会社が潰れてしまい、わずかな退職金で失業の日々送らざるを得なくなった。二人の子供を抱えた妹の日ごとに暗くなっていく顔を見ていると、私もじっとしていられず、この年の秋、人手不足だった私の役所に就職を頼んでみた。  こ…
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当たった内職、六帖に二世帯が住める改造案

 この年(注、昭和21年)の春、長男が生まれ、、子供をもつ喜びとともに肩の荷がぐっと重くなるのを感じた。そして、ふたたび勢いを盛り返したインフレにいっそう苦しめられ、生活を少しでも和らげるために、初夏のころ、内職でもして金を稼ぎたいという考えが頭から離れなくなった。  ところが、どこを見ても内職などは見つからなかったし、戦時中…
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一回休み

いつもなら長谷川末夫さんの著書「汽車が好き、山は友だち」から抜粋して、戦前、戦中、そして戦後を懸命に生きた一庶民の暮らしを紹介するのですが、こちら(太田)個人の都合で今回は一回お休みとさせて頂きます。 PCに向かえば転記などそれほど面倒な作業ではないのに、たった月に一度の更新も今回ばかりは時間が取れず、ならばと仕方なく素人の不…
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昭和二十一年、革命前夜を思わせた皇居前

 昭和二十一年の年の初め、来日した外国のジャーナリスト(新聞記者?)が日本の現状を見て、春までには一千万人の餓死者が出るだろうと予言したのをなにかで見たことがあった。  実際にはそこまではいかなかったが、当時のありさまは第三者が見ても、それほどひどいものだった。とくに食糧事情はよくなるどころか、いっそうひどくなった。それに…
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食糧がない、石炭がない、電気・ガスもない

 塩屋の旅から帰って来たころから、かつてなかったほど石炭不足がひどくなり、東京鉄道局管内だけでも貯炭量が二日を割るという状態で、鉄道は危篤状態となった。そのため十一月以降は50パーセント以上も列車本数が減ってしまい、乗車制限は厳しくなり、ただでさえ混雑の激しい列車に私たちはもう乗れないだろうとさえ思われた。  そのうえ、さらに…
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常磐線での浮浪児と少女に見る戦後

 泉駅から常磐線の上り列車に乗る。混雑を覚悟していたのに、列車はかなり空いていて座席に座ることができた。しかし、途中から浮浪児のような三人の少年がウイスキーの瓶を片手に持って、ぐでんぐでんに酔っ払って乗りこんできた。  ウイスキーをすっかり飲んでしまうと、空になった瓶を肘かけで叩き割ったり、大きな声であたりかまわずわめきち…
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兄の長屋で一泊、塩屋岬の灯台見物

 夕方、宿の女中は別の部屋に私を移してくれた。兄夫婦を迎えに行った妻はなかなか戻って来なかったが、七時になってようやく兄たちを連れて帰って来た。一休みしてから話を聞くと、兄のいるその海岸町には昔から一つの風習があって、隣組のなかで人が死ぬと、その身内はもちろん、親戚もいっさい葬儀に関しては手を出してはならず、隣組の人が三日間仕事を休…
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四男の兄の見舞いに身重の妻と塩屋への旅 2

 もたげた旅心、平郊外の閼伽井岳へ  日立を出ると、これまでの汽車旅行で幾度も見慣れた常陸の海沿いを列車は走る。それは昔と少しも変わらない懐かしい風景だった。すると旅心がむくむくと頭をもたげて来た。昔の旅を思い、またいつ来られるかわからないと思うと、せっかくここまで出て来たのだから兄のところへは明日だっていいじゃないかと思い、…
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四男の兄の見舞いに身重の妻と塩屋への旅 1

 焼け野原の水戸、灰燼に帰した日立  こんな生きにくい世の中になったのに、昭和二十年十一月、私はやむを得ない用事のため、妻と二人で戦後初めての旅をすることになった。終戦直前、福島県の海岸町小名浜へ工場ぐるみ疎開した四男の兄の会社が終戦とともに倒産してしまい、小さな町工場だっただけに退職金も出ず、東京からついて行った工員たち…
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三世帯同居、一度の買い出しで麦三斗に芋六貫

 日本がアメリカ兵に占領されても私たちの生活にさほど大きな変化もなく、平穏無事とわかった九月に、母を疎開先の稲城村へ迎えに行った。町の貸車屋からリヤカーを借りて自転車の後ろにつけ、妻には電車で先に行かせて、後押しを手伝ってもらって帰って来た。  食糧事情がもう少しよくなるまで疎開先にいてもらいたかったが、稲城村でも食糧は窮屈だ…
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終戦―安堵と混乱の日々

 終戦とともに建物疎開は中止となり、大都市への再転入は抑制された。八月二十日には灯火管制は廃止され、天気予報も復活した。十月になると、集団疎開をしていた学童が東京に帰って来て、焼けた校舎の片隅で青空教室が開かれた。  八月三十日、マッカーサー元帥が厚木に到着し、前後して米軍が続々と進駐して来た。初めて見る彼らの顔は明る…
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昭和二十年八月十五日

 昭和二十年八月十五日、天皇の重大ラジオ放送のある日だ。それが何の放送か正確にはわからなかったが、朝の新聞を見て、終戦を知らせるものであることは推測できたけれども、この日も依然として空襲は続き、本当に戦争が終りになるのかどうかずいぶん心配した。  この日の正午、天皇の終戦放送が終ると、それ以後、十六日にかけて空襲警報のサイレン…
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栗橋での敗戦の噂。八月十五日の放送

   戦争がここまで来ると、いくら私でももう丸一日かかる買い出しには行けなくなった。食糧はあと数日を残すのみとなり、その心細さに八月中旬のある日、半日で言って来られる栗橋へ、妻と二人でカボチャの買い出しに出かけた。  その日、カボチャをわけてもらって栗橋駅へ戻ったが、どうしたことかいっこうに帰りの汽車が来ない。しかたなく栗橋…
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疎開の混乱ぶりに国滅亡の姿を見る

 世の中がこんな状態になると、本当に毎日が死との対面だった。明日という日がどうなるのか、まったく期待は持てなかった。空襲のあるたびに役所の人が、一人二人と隠れん坊でもするように消えて行った。  私に自転車を貸し出してくれた二人の用度係の人も、ともに三月以来、どこへ行ったのか行方がわからなかった。なかには恐怖のあまり役所に無断で…
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家を失った都民のための濠舎づくり

 昭和二十年に入って役所で何をしていたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。ただ、三月の空襲のとき、区役所へ仮庁舎建設に出勤したことと、その後、ときどき宿直をして庁舎を守るようになったこと、そして四月ごろから家を失った都民のために濠舎づくりが奨励されて、係長がモデル濠舎の案を立て、私たちがその設計図を引き、六月に日比谷…
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シャベルや鍬、蝋、焼け跡に物を拾う

 物をもらったり、拾ったりするといえば、役所の倉庫の焼けた地下足袋の底ゴムをもらってきたのもその一つだが、三月の大空襲の後、焼け跡から鉄の車輪を拾ってきて手押し車を造ったのもその一つで、空襲の合間を見ては朝早くから夕方遅くまで、この手押し車を押して不足する燃料を補うために焼け跡をほっつき歩き、焼け木杭を拾い集めた。  焼け跡は…
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宿直と半焼けの地下足袋の底ゴム

 三月の大空襲の後、校舎を焼夷弾から守るために中学校以上の学校では生徒が泊まり込みをするようになった。役所でも庁舎を防衛するために数日おきに宿直をするようになったが、私にとって、この宿直はなによりも恐ろしかった。私の留守中、家にもし焼夷弾でも落とされたら、老齢で足腰の不自由になった母を安全な場所へ連れ出すことは、ひ弱な兄には…
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防空群長、横穴濠へ待避と灯火管制

 昭和十九年の四月から私は隣組の防空群長になっていた。初めのうちは大したこともなかったが、その年の十一月から本格的な空襲が始まると忙しくなり、二十年に入ってからは夜もおちおち眠れないほどになった。  それにこの冬の寒さは二十年来といわれる厳しさで、昼間こそそれほどでもなかったが、夜は実につらかった。ほとんど毎日のように警報は鳴…
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歴史はお上が作るものではないのです

2018年5月14日(月) 日本テレビ NNNドキュメント 「南京事件 Ⅱ」 AM 0:55~  73年前、戦争により一度は焦土と化した東京。 今は防衛省が置かれているこの一角に、かつて陸軍省参謀本部がありました。 敗戦が決まった1945年の8月、この建物の裏手から三日間にわたって煙が立…
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三月から五月にかけての東京大空襲

 東京は前後三回の大空襲を受けて焼き払われた。その初めは三月九日夜半から翌日の未明にかけてB29百三十機(三百機ともいわれた)による下町への焼夷弾攻撃だった。当初は少数機が飛来したが、すぐ飛び去って警報が解除になり、ほっとしたとき本隊が低空で少数機に分散侵入、正確に目標を摑み虱潰しに一つ残らず焼き払った。下町は燃えやす…
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空襲につぐ空襲で恐怖の八ヵ月

 第二回目の東京大空襲は四月十三日夜半から十四日明け方にかけ、B29百七十機をもって行われた。このときは東京の山ノ手方面が攻撃され、焼夷弾による市街の無差別攻撃だった。一日おいた十五日にもB29二百機が、京浜地区と帝都城南地区を大爆撃して去って行った。  名古屋地区はときどき空襲を受けたが、五月十四日の大空襲はひどかったら…
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昭和二十年

 昭和二十年と年は改まったが、この年は日本国中が空襲で始まり、空襲で終る恐ろしい八ヵ月だった。それに日本は敵に取り囲まれ、ますます深刻化する食糧不安と熾烈をきわめる敵の攻撃に、殺されるか飢え死にかとただおろおろするばかりであった。  外にあっては一月上旬、アメリカはフィリピンのルソン島に上陸、二月上旬、マニラを占領、そして二月…
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建物の強制疎開と始まった空襲

 猿島郡へ買い出しに行くようになってから、建築資材を欲しがる農家がかなり多いことを知った。この年の初め、政府は防空上の目的で都内の建物の疎開を強制的に行うことを決め、夏ごろからさかんに各所で建物疎開が始まった。私の役所でも壊すことが仕事の一つになり、あちこちで役所の建物の取り壊しの監督をした。  取り壊しは時間がないせいか…
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買い出しも旅、茨城の猿島郡まで自転車で 2

 この買い出しに持って行く品物はだいたい役所からの配給品だった。その主たるものを挙げると、作業服上下(年三回ぐらい配給)、ゴム長靴(年に1,5回ぐらい)、軍手、軍足、地下足袋、ズック靴、ゲートル、作業帽(これらは2、3ヵ月に1回)。こうした品物のほかに使い方もわからない分厚いズックの布地二メートルやゴムの氷枕、麻の南京袋、一升瓶に入…
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買い出しも旅、茨城の猿島郡まで自転車で 1

 (昭和19年)九月ごろ、町工場に行っている四男の兄は会社から作業服一揃えに帽子から軍手、軍足、地下足袋までもらって来て、私にこれを食糧と交換して来てくれという。これらは農家でもっとも喜ばれる物物交換の品物だった。私はさらに倹約してためておいた電球と石鹸を添えて、これなら必ず食糧は手に入ると妻と二人で喜び勇んで出かけて行った。 …
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このごろ世の中がキナ臭い 後編

前回の「このごろ世の中がキナ臭い 前編」からの続きです。 野坂さんは当時中学生でした。 ですから今中学生に僕は語り伝えていきたい。 で、その言葉を受け止めて、じゃあ僕は小学生に語り伝えていこうと、こんな約束をしたんですが、その他にも昭和1ケタで調子がいいとか目立ちがり屋だとか、あるいは知恵はあるけれども、というよう…
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このごろ世の中がキナ臭い 前編

ずいぶんご無沙汰してしまいました。 本来の管理人HASEGAWA氏が、実父末夫さんの生原稿を保管しているにもかかわらず、ブログにノータッチを決め込んでおりまして、滞ったままでありました。 でも、決して放置したままで終わらせるつもりはなく、ならば仕方ないですね、またしゃしゃり出て、お口ならぬお目汚しで間をつなごうと、管理UNION…
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生活窮迫、カボチャを買いに埼玉の栗橋へ

 日光の旅から帰ってきたころ、日本の戦況は予期に反していっそう悪くなっていた。六月中旬、サイパン島に上陸した米軍を撃つべくマリアナ沖海戦(サイパン西方)が行われたが、わがほうは多くの空母、飛行機を失う大敗北といわれ、西太平洋の制海権は完全に敵の手におち、開戦以来最大の重大な局面となった。  このとき大本営は、空母五、戦艦一…
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足尾から庚申山探訪

終戦前年の6月、新婚旅行で日光へ来た末夫さんだが、蜜月も関係なく、友人同伴の三人旅行にしてしまった。 前回の内容にも、「いくらなんでも若い男女が二人で歩ける時代ではなかった…」と書きながら、中禅寺湖畔では「湖畔には新婚者らしい若い二人連れをよく見かけた…」と綴り、若干の矛盾を露呈させている。 しかし、新婚旅行を口実に山旅をし…
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奥秩父 唐松尾山登山

    唐 松 尾 山   1995年12月6日 (水曜日)  前回と同じ中島川口の登山道入口に着いたのが午前五時少し前。まだ辺りは深い闇の中で、見上げれば満天の星と、時折疾る流星が今日の晴天を約束してくれているようだ。流星は突然あらぬ方角から現れ、そして一瞬に消滅してしまうので、あわてて「読み書き算盤!」と叫んでも、なか…
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笠取山登山 ~海まで138キロ~

   笠 取 山   1995年11月22日 (水曜日) 前日に崩れかけた天気もやや持ち直し、雲が多いものの雨の心配はなさそうだ。 午前5時、自宅を出発。 予定では雲取山に登ることにしていたが、青梅街道から後山林道に入ってわずかなところで通行止め、仕方なくUターンする。 ここに車を停めて林道歩きをしてもいいの…
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新婚旅行で日光へ

 世の中がどうなっていくのか、いつ兵隊にとられるのかわからないながらも、運を天に任せてこの年(昭和19年)の春、四月二十三日、雷の鳴るなか私は結婚した。相手は私より数年後輩の同じ職場の岩島志満子という女子職員だった。  彼女はこうした世に生まれてきた以上、日本人はみんな同じなのだからどんなことがあっても動じない覚悟はできている…
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空腹の日々

 海のかなたでの戦局は期待に反して重大化していたが、国内の生活もさらにいっそうの苦しさを増していった。  一月に戦費調達のため、政府は直接税・間接税の大幅値上げ案を決め、間接税は一足早く二月中旬実施といわれ、それによると清酒一升(1・8リットル)一級七円が十二円に、ビール一本九十銭が一円三十銭に、ウイスキー四合瓶(720ミリリ…
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昭和十九年

 三陸の旅(参照)から帰ってきたころ、敵はソロモン群島北部のブーゲンビル島に有力部隊を上陸、日本はこれを阻止するために、十一月一日から五日にかけてブーゲンビル島沖海空戦を行ったが、大本営は、海戦で敵の巡洋艦と駆逐艦十四隻、大型輸送船四隻撃沈破、航空戦では空母二隻轟沈、巡洋艦等四隻撃沈、上陸用舟艇四十隻以上撃沈、敵機撃墜十機、わがほう…
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安達太良山麓の旅、芸者がくれた乾麺

 六月中旬、福島駅からバスで土湯温泉に出て、そこから歩いて土湯峠を越し、その日は沼尻温泉で一泊。翌日、安達太良山麓を歩いて赤木平を越え、本宮駅に出た。途中の高原の風光はすばらしく、スケッチなどしていたため、平野部におりたのが少し遅くなってしまった。駅へ行くまで食糧探しをずいぶんしたが、時間が遅くなったのと気が急いていたせいか、食…
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昭和十八年の山旅と、買い出しのことなど

 この年(転記者注、昭和18年)私の行った主な旅は、一月の阿武隈のほか、四月には猪苗代湖東部の山の旅で、東北本線郡山駅より八幡岳(1102メートル)、会津布引山(1081メートル)に登り、茨城街道を江花(えはな)から東北本線須賀川駅に出た二泊三日の旅では、米八升(十二キロ)入手した。六月には安達太良山麓を一周、赤城平(1050メート…
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同僚Tの失恋と、阿武隈高地の旅

 昭和十八年は前年に比べたら、比較的旅をした年だった。そのきっかけは役所の同僚Tが失恋に悩んでいたときで、彼を元気づけるために正月休みに東北本線二本松駅から常磐線大野駅へと途中にある旭岳(日山、天王山1058メートル)を越え、雪の阿武隈高地横断の旅へと連れて行ったのだが、ちょっとしたことから帰りに少しまとまった食糧を手に入れることが…
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東京都の誕生

 昭和十八年七月、東京は府と市が合併して東京都と名を変えた。この非常時に大東亜の中心・東京が府と市の二重構造となっていては何かと行政の円滑を欠くという理由からで、強力な体制を作るのが目的だったようだ。予定では十月発足だったが、内外の情勢の急迫で七月に早まった。  それまで知事官房営繕課だった私の勤務も防衛局勤務となり、帝都防衛…
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昭和十八年、臨戦態勢の強化と山本五十六元帥の戦死

 昭和十八年、新しい年を迎えたが、戦局の悪化は決戦体制の強化をもたらし、われわれの生活にも影響して苦しい生活の幕開きとなった。  元旦から一ヵ月二五立方メートルという、ただでさえ少ないガスが二三立方メートルに減らされて、正月らしい気分は味わえず、町で映画や演劇を見ようとすれば冷たい目で見られ、家庭ではおもしろくもない「愛国百人…
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役所の若い職員を連れて秩父の三国山鍛錬登山

 こんな世情になっても、日本が負けるなどとはまったく思いもしなかったし、少しでも体を鍛えておいて、いざというときにはお役に立ちたいと思っていた。十一月(昭和17年)の初め、ちょっとしたきっかけで、また三日ばかり心身鍛錬を目的とした山旅をすることになった。それは来年兵隊検査を受ける若い職員たちから、 「少し体を鍛えておきたいから山へ連れ…
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戦局悪化と滅私奉公

 ミッドウェー海戦の後、勝ちに乗じた米英の反撃が開始された。昭和十七年八月上旬、ガダルカナル島とツラギ島に大輸送船団をしたがえた米英連合艦隊が上陸進攻、ガダルカナル争奪の第一次ソロモン海戦が始まった。  このとき日本海軍が秘密裏に造っていた飛行場が完成間際にあっさり占領され、アメリカはただちに使い始めたという。  こ…
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塩原の日留賀岳に登る

 ミッドウェーの敗戦で日本が重大な岐路に立っていたこの時期、そんなことはまったく知らない私は旅への思い抑えがたく、その年の八月(昭和17年)、奥塩原の日留賀(ひるが)岳(1849メートル)登山に出かけた。この山は徴用に行くまえの下調査で、地元の人たちから信仰の山として崇められ、道のあることがわかっていた。そろそろ休みもとりにくくなっ…
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ミッドウェー海戦のころ

 昭和十七年の六月上旬、日本の運命を左右するミッドウェー海戦が行われた。四月の東京初空襲以来、山本連合艦隊司令長官は敵殲滅をはかり、連合艦隊の総力を投入してミッドウェー沖に一大決戦を挑んだ。  ミッドウェー海戦に先だつ五月上旬、ニューギニア東南海面で、日米機動部隊同士の初の珊瑚海海戦(航空戦)が行われたが、このとき大本営は、空…
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野菜の買い出しに三多摩へ

 北関東の旅を終え、私は何年ぶりかで役所の机に向かって仕事をするようになった。役所での仕事、それは東京府庁の経営する学校や病院、試験場などの増改築や修繕工事などで、図面を書き、工事が始まると、現場を監督して歩くことで、その現場も私の担当は府庁から遠い三多摩の農村地帯が多かった。私は以前から交通費を浮かせるため、こうした現場まわりはい…
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初の東京空襲

 私が枯木山と荒海山の旅から帰ってすぐ、昭和十七年四月十八日に最初の東京空襲があった。戦勝に酔っていた人々にはえらいショックだった。私は山へ行って本当によかったと思った。こうした事態になると、もう山などとはいっていられなかったからである。  この日、私は本庁で仕事をしていたが、空襲のあったのが昼ごろで、警報の出るのが遅れたせい…
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荒海山南壁登攀

前回アップした「案内人なしでは登れぬ南会津の枯木山と荒海山 後編」の元となった原稿。 これも戦中の貴重な資料として残すことにする。 判読できる部分だけ拾い読みしても、なかなか興味深く読んだ。 興味や関心があり、なおかつ時間の余裕がある方限定ですね。 でも、さまざまな物資が不足している時代であっても、役所の用紙を私的に使用…
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案内人なしでは登れぬ南会津の枯木山と荒海山 後編

 二日目の荒海山登山は行程が長いので、宿を午前二時起きして出立する。明るくなるまでに湯坂峠を越えてしまい、峠下からマス沢に沿って登る。途中に製炭事業地があり、そこまでは道もよかったが、その先は道がなくマス沢の源流を溯る。ここはものすごい悪場続きで、天に蓋をしたような、真っ暗な原始林のなかで見通しもきかず、幾度も冷汗を掻いた。 …
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湯西川温泉と枯木嶽登攀

前回、「案内人なしでは登れぬ南会津の枯木山と荒海山 前編」でアップしたものは、末夫さんの本からの抜き書きで、ずいぶん簡単なものだったが、今回はその元となった生原稿を載せる。 判読不能で転記を断念したものの、部分部分を拾い読みしてみると、本の内容より数倍も面白い紀行文になっている。 それだけに転記できなかったことが残念である。 …
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案内人なしでは登れぬ南会津の枯木山と荒海山 前編

 枯木山と荒海(あらかい)山の旅に出たのは、徴用から帰ってすぐの昭和十七年四月十日だった。山麓の湯西川温泉にその日じゅうに着くため、朝暗いうちに家を出て東武の浅草雷門駅まで歩いた。この非常時に山登りに行くなどと人に後ろ指を指されないように、額には鉢巻きをし、徴用時代の古い作業服を着て、地下足袋ばきにゲートルを巻き、リュックサックは大…
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昭和十七年

 昭和十七四月上旬、下北の旅を終えて一路東京へ戻る夜汽車のなかで、帰ったら久しぶりに北関東の山を思う存分旅してみようと考えていた。しかし、家に帰りつくとそれは甘い夢であった。軍の一員から一介の地方人に戻ってみると、戦時下の都会生活の厳しさは想像以上で、そんな暢気なことをいっている場合ではなかった。第一、食糧の不足と生活必需品の逼迫に…
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