四男の兄の見舞いに身重の妻と塩屋への旅 1


 焼け野原の水戸、灰燼に帰した日立


 こんな生きにくい世の中になったのに、昭和二十年十一月、私はやむを得ない用事のため、妻と二人で戦後初めての旅をすることになった。終戦直前、福島県の海岸町小名浜へ工場ぐるみ疎開した四男の兄の会社が終戦とともに倒産してしまい、小さな町工場だっただけに退職金も出ず、東京からついて行った工員たちは無一文で路頭に放り出されてしまった。

 といって東京へ帰りたくても再転入抑制で帰れず(暫定的だったが、昭和二十一年三月九日、正式に都市転入禁止となった)、そんなわけで、これからどうして生きていこうかと考えたすえ、四、五人の兄の友人が集まって、この十一月、一時統制廃止になった魚の行商をしようということになった。

 しかし、四男の兄はその元手もなく、明日の糧にも困っているので、何とか助けてくれと悲鳴に似た知らせを受けたからだった(魚や野菜など二十一年一月十八日、再統制となり以後は闇商売をすることになった)。

 その兄は幼いころから学校が嫌いで大正十五年、高等小学校を出ると、鉄道に入れようと奔走していた父の意に反して日暮里にある小さな町工場を自分で探して工員になったが、母はいつもこの兄の行く末を案じていた。この知らせに接すると、目に涙をにじませて「五男(いつお)がかわいそうだ、五男がかわいそうだ」といって泣き崩れた、そして母は、三男の兄や私が月々渡していた小遣いを、もう何年も使わずに貯めておき、それをそっくり差し出して、すぐ届けてやってほしいという。それは四百円ほどになっていた。

 列車の混雑を考え、私は為替で送ろうと思ったが、母の、直接行ってどんな生活をしているのか見てきてほしいという、たっての頼みに、食糧も四、五日は持ちそうなので、一晩、半徹夜してやっと切符を手に入れ、役所には急用を理由に四日の休暇の届けを出して、翌朝の午前十一時の列車で上野を発つことにした。

 四男の兄への見舞金に三男の兄が二百円、私が旅行費用も含めて貯めておいた金のなかから三百円、母のぶんも合せて九百円の現金を持って出かけたのだが、当時としては大金だった。このころの列車内は混雑に紛れた無法地帯だったから、私一人では心細く、会社のつごうで一緒に行けない三男の兄のかわりに、一人より二人のほうがまだいいだろうと身重だった妻を連れ、金は二つにわけて厳重に腹に巻いて出発したのだった。


画像 ところが、一歩、上野駅のホームに立ってみると、それは殺人的な混雑ぶりといっても決して過言でなく、とても列車には乗れず、一列車やりすごして、上野を出たのが三時近くになってしまった。

 それでも客車には乗れず、客車代用に増結された貨物車にぎゅうぎゅうに押しこめられ、身動きもできないまま立ち尽くすありさまだった。

 あまりの混み方に、身重の妻の身を案じて、その日、水戸で列車を降りることにした。水戸は激しい空襲で一面焼け野原になっていた。

 瓦礫の街に行き交う人の姿だけが目についた。行きずりに知り合った旅の老人が、
「水戸には泊まるところもないから戦災をこうむらなかった大洗のほうがいいでしょう」
と教えてくれた。

 大洗に行く水浜(すいひん)電車も乗客の洪水だった。何台もやりすごしてやっと乗ることができたが、磯浜の町に着いたときにはすでに夜になっていた。灯火管制がまだそのまま残っている街のなかはいっそう暗く、電車から吐き出されたたくさんの人の群れがその暗い街のなかに吸いこまれて行く。

 私たちもその人々の群れの後について街のなかへ宿を探しに入って行った。道の両側には店屋が多く、ことに魚をたくさん売っていた。秋刀魚の干物が四枚十円、柿が四つで十円と、どこも四つ単位で相場が決まっていたが、とても高くて手が出なかったけれども、その豊かさを見ただけで東京の食糧地獄が嘘のように思えた。三階建ての大きな旅館に宿をとる。夕食には、ここ数年お目にかかったこともないような新鮮な刺身が出て、喜ぶまえに何か不思議な世界へでも連れて来られたような気がした。

 夕食のすんだころ、隣の部屋に二人の若い男が二人の女を連れて来て酒を飲みはじめた。女の狂うようなかん高い叫び声と男の猥笑とが、まるで嵐のように私たちの部屋へ押し寄せてくる。まだ若かった私たち夫婦を羨む嫉妬からなのか、転落していく女たちの嬌声に、久しぶりに味わう和やかな旅心を暗くさせられた。

 それでも少しは眠ったようだった。女たちの騒ぐ声にふと目を覚ますと、もう夜は白々と明けていた。隣の部屋は一晩中騒ぎどおしで、妻は一睡もできなかったという。洗面所の帰りに垣間見た隣の女たちは、鳥の巣のような頭をした、このへんの安カフェーの女給らしかった。女が捨て台詞を残して帰ってしまうと、男たちは気の抜けたような顔をして窓の手摺に寄りかかって、眩しそうにいつまでも海を眺めていた。その日焼けした肌は漁師を思わせた。

 朝、宿を出るとき、一人一泊三十円の宿泊料を請求された。いままでいくら高くても、七、八円しか払ったことのなかった私は、その法外な金額に吃驚してしまった。

 その日、私たちはすっかり寂れて人気のない大洗海岸に沿って那珂湊の街まで歩いた。松林のなかに豪華な別荘と思われる建物が建っていたが、アメリカに接収されたのか、静まり返った入口に「日本人立ち入り禁止」の立て札が立っていた。途中の大洗磯前神社にお参りする。丘下の大きな鳥居の前に立ったとき、六、七年も前に東京から昼夜兼行で自転車を走らせて、日本の戦勝と二男の兄の病気快癒の祈願に来た日のことが、懐かしさとともに一抹の虚しさをともなって心に蘇ってきた。参詣者のまったく絶えた参道の両側に、お客もないのに葦簾張りの露店が店をひろげて、粗末なおもちゃを雑然と並べて売っていたが、客もなく手持ちぶさたの売り娘がものめずらしそうに私たちを見ていた。

 私たちは長い石段を上がり、丘上に出ると眼下には太平洋が見渡せた。そこに神門があり、ふと見るとその前に立て札が立っていて、「この神様は平和愛好の神様です」と書いてあった。立て札の新しさから終戦直後に立てたことは明白だった。これは宮司の転機で、何者かの圧力を恐れて立てたものだろうが、戦時中はしきりに戦勝の祈願をいい、戦争に敗けると、その舌の根も乾かないうちに平和愛好の神といいかえる、神の威厳を傷つけるような人間の身勝手さが情けなかった。私は神前にぬかずき、ひたすら日本の復興を祈願して丘を下った。

 那珂湊からおもちゃのような私鉄で常磐線の勝田へ出た。途中、車窓から見える巨大な工場群が、激しい爆撃と艦砲射撃を受けて、見るも無惨な姿を初冬の陽の下に晒しているのは、いかにも敗戦国らしい風景だった。勝田から下りの列車に乗る。昨日ほどの混雑ではなかったが、一駅ごとに乗りこんで来る買い出し部隊で、たちまちにして満員になった。それらの人が日立で降りると、やっと座席に座ることができた。

 日立で列車はしばらく停まっていた。その車窓から見る日立の街の被害の大きさに、戦慄にも似た恐怖を感じてしまったほどである。あの巨大な一大工業都市が一挙に灰燼に帰して、一面の赤茶けた大地が遠い山の上まで続いていた。骨ばかりになった工場の建物は、あたかも骸骨の街を見ているようだった。

 隣に座っていた人が、
「この工場で何人の人が死んだかわかりません、艦砲射撃は弾が見えないだけに、その恐ろしさといったら口ではいえないほどです」
と、当時を思い出して、身を震わせながら話してくれるのだった。

 列車の発車間際に米兵が三人、ビールを飲みながら乗りこんできた。ポン引きのような日本人と手真似で話をしながら陽気に騒いでいる。
「煙草一個でキッス一回だってさ、それじゃ、こっちがわりを食っちまわぁ、なあ、おばさん!」
と、ポン引きはそばにいた中年女に話しかけると、「まあ、やだよ――」と、女が顔を赤くして下を向いてしまう。それを見て米兵たちも一緒になってげらげら笑っている。そうした彼らの陽気さは一瞬、列車のなかを明るくする。彼らのやりとりを聞いているだけで、けっこうおもしろかった。昨日まで彼らは敵だったが、いまは車内の誰もがそんなことを憶えている人は一人もいないようだった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉



転記 太田


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