空腹の日々


画像 海のかなたでの戦局は期待に反して重大化していたが、国内の生活もさらにいっそうの苦しさを増していった。

 一月に戦費調達のため、政府は直接税・間接税の大幅値上げ案を決め、間接税は一足早く二月中旬実施といわれ、それによると清酒一升(1・8リットル)一級七円が十二円に、ビール一本九十銭が一円三十銭に、ウイスキー四合瓶(720ミリリットル)二五円が五十円に、白砂糖一斤(600グラム)三五銭五厘が三八銭五厘になど、ほんの一例だが、家庭の台所を直撃した。

 また新防空法による強制的な建物の疎開が実施され、まず東京、名古屋の二十三地区が指定されて、徐々に全国の大都市に広げるという。建築中だった新丸ビルは基礎だけで中止され、防火用水に転用して食用の鯉を飼うことになった。

 二月にはビヤホール、喫茶店などは雑炊食堂となり、三月、高級料亭、カフェー、バーなどは一斉休業、新聞の夕刊は廃止、歌舞伎座、東劇なども閉鎖、官庁の休日は縮減、空き地の菜園化をさらに強化、四月に東京都の幼稚園の休園決定、お米の供出と増産をはかるため一石(150キロ)当たり百円の報奨金を出すことになり、五月には文部省は女学校の工場化実施を通達、ガスの使用量は十パーセント減となった。六月にはそれまで勧奨だった女子挺身隊の結成と出動が強制措置とされ、年齢も十二歳から四十歳までに枠が広げられた。このようにしだいに決戦体制は強化されていった。

 そうしたなかでショックだったことは、四月から実施された不要不急の旅行の禁止で、特急、寝台車、食堂車は廃止、東京から出かける場合、百キロ以上は証明がないと切符が買えないという事態になった。汽車賃は昭和十七年からここ二年間に大幅な値上げが続き(上野-仙台間に例をとると、昭和十五年、三等片道四円五十五銭、十七年、五円二十銭、十九年、八円となった)、私の月給も七十円となっていたものの、内外の情勢の悪化と高い汽車賃のために旅への夢も果たせなくなるだろうと思った。

 そうした暗さのなかで、政府も少しは国民に楽しみを与えなければならないと考えたのか、五月に都内に国民酒場が開店し、酒は一人三合(540ミリリットル)、ビールは一本、ただし夕方六時から夜八時までで、三十五区内(都の区はこのころ三十五区制。戦後昭和二十二年三月十五日より二十三区制となる)に酒は六十五店舗、ビールは三十九店舗で販売され、どこでも飲めるというわけではない不便はあったが、それでも初めは長い行列が続いた。

 そんな情勢下の四月、私は隣組の防空群長にさせられた。このころは警戒警報がたまに鳴ることはあったが、敵機はまったく姿をあらわさなかったから、大したこともなく肩書だけですんだが、なによりも困ったのは食糧の不足だった。米は代用品と抱き合わせとなり、ただでさえ不足な一日二合三勺(340グラム)では、空腹はどうにもおさまらなかった。三多摩での食糧補給も不可能に等しく、買い出しに行きたくても汽車の切符は買えず、毎日が空腹の連続だった。

 こうしたピンチを切り抜けるために、日曜日というとほとんど自転車を利用して、埼玉とか千葉など、近いところに食糧の買い出しに出かけた。年の前半にはまだ岩槻とか野田の周辺、利根川の沿岸や手賀沼の裏のほうへ行くと、少しだが野菜や芋類、麦などが買え、どうにか飢えを凌ぐことができた。

 このころは、実に苦しい空腹時代だった。われわれ庶民はほかに食物を入手する手段もなく、わずかな配給だけが頼りだったからそれは当たり前だったろう。しかし、これから戦後にかけて、もっともっとひどい空腹時代がやって来るその序曲だった。そのピーク時と比べたらまだ大したことはないといえるかもしれないが、こうした経験を初めて味わう私には、ただただ空腹に怯えるばかりだったのである。

 こんなとき、せめてもの救いだったろうか、二月に雑炊食堂がお目見得した。初めは数も少ないせいか、どこにあるかもわからなかったし、それにどうせ大したものでもあるまいと当てにもしていなかった。ところが四月に入って、役所の先輩が大発見でもしたかのように私の部屋へ息せき切って飛びこんで来て、極秘情報だといって雑炊食堂の存在を知らせてくれた。この先輩には以前に野菜をわけてやったことがあるので、その恩返しだといって、絶対人には教えるなと固く口止めされた。それくらい人々は食べものに夢中だったのだ。

 先輩は私を役所の近くにできた雑炊食堂に連れて行ってくれた。どんなものを食わせるのか半信半疑でついて行ったのだが、それでも初めのころは行列も少なく、それだけに米の量も多く、軟らかいおじや程度で、けっこう腹の足しになった。ところが、この雑炊も日がたつにつれて行列は長くなり、おつゆばかりが多くなって米が減り、それでも売り切れは早くなり、あぶれることが多くなって、あまりこれも当てにできなくなった。この失望と不安は実に大きなものがあった。

 この雑炊食堂の不評は、九月、議会にまで持ち出され、その存廃が騒がれたが、時の太達内相は運営に一工夫して新しく出直すと言明した。しかし、何といっても原材料不足はいかんともしがたく、私はこのとき他力本願は駄目だとつくづく悟り、食糧は自分で探すことだと真剣に考えるようになった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

転記の作業を続けながらいつも必ず参考にするのが、内田百閒の「東京焼尽」や荷風の「断腸亭日乗」で、同じ時代を生きる文士と末夫さん(長谷川家)の対比に、共に東京に暮らす「生活人」の記録が興味深い。
断腸亭日乗を調べてみると、この昭和19年の4月11日には、以下の記載がある。

 毎朝七、八時頃飛行機の音春眠を防ぐ。その音は鍋の底の焦げつきたるをがりがりと引掻くやうにていかにも機械の安物たるを思はしむ。そはともかく毎朝東京の空を飛行して何の為すところあるや。東京を防がんとするにはその周囲数里の外に備ふる所なからざるべからず。徒に騒音を市民の頭上に浴びせかけて得意満々たる軍人の愚劣これまた大に笑ふべきなり。この日陰。午後土州病院に至り健康診断を請ふ。銀座街頭の柳花開かざる前に早くも青くなれり。電車雑踏せず。街上行人漸く稀なり。

 食物闇値左の如し
白米一升 金拾円也
するめ一枚 一円也
酢一合 金壱円也
沢庵一本 五円也
食麺麭一斤 金弐円四拾銭也
鶏肉一羽 金弐拾五円也
醤油一升 金拾円也
鶏卵一個 金七拾銭也
バタ一斤 金弐拾円也
砂糖一貫目 金百弐拾円也

 〈 岩波文庫より 〉

文豪も配給だけでは暮らしが成立せずに闇の食糧を購入し、その闇値の高騰に憤慨していることが窺える。
戦争(軍)への批判は言わずもがなである。

※ 太田


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