東京都の誕生


 昭和十八年七月、東京は府と市が合併して東京都と名を変えた。この非常時に大東亜の中心・東京が府と市の二重構造となっていては何かと行政の円滑を欠くという理由からで、強力な体制を作るのが目的だったようだ。予定では十月発足だったが、内外の情勢の急迫で七月に早まった。

画像 それまで知事官房営繕課だった私の勤務も防衛局勤務となり、帝都防衛の第一線を担わされることになった。ところが早急な機構改革のむずかしさというのか、偉い人たちの考えも末端のわれわれまでは届かず、資材不足のせいもあったが、防衛らしい仕事は少しもせず、従来と同じ小修繕工事をあっちこっちとやっていて、仕事自体は少しの変わりばえもなかった。時の都長官(知事)は陸軍の施政長官だった大達茂雄という東条大将のお気に入りで、この人によって都庁のなかもたちまち軍国主義に塗りかえられていった。

 一例を示すと、そのころは政府が音頭取りになって戦意昂揚が叫ばれていたが、四月には東京で「敵愾心昂揚大講演会」が開催され、日本必勝と米英撃滅がさかんに鼓吹されていた。これに歩調をあわせるように、東京都になると、よく軍人が都庁を訪れ、広い講堂で戦意昂揚の演説をぶつようになった。副官をしたがえ、髭をピンと跳ね上げた佐官級の人が景気のよい話をぶちあげる。

 日本が負けるなどとはまったく思ってもいなかった私はそんな景気のいい話を聞かされると、ほかの人たちと一緒になって、やんやの拍手を送ったものだった。軍人は腰の日本刀を引き抜いて気合もろとも一刀両断の真似をして、「日本は必ず勝つ!」と断言する。そして、
「勝てば敵国の土地と物資のすべては全部われわれのものになる。広い土地の大きな家に住み、豊かな生活ができるようになる!」
といい、品のよくない、人にもいえないような下劣な言葉を並べたてて煽りに煽った。

 私の友人で長いこと外地に兵隊として行っていた男が、「俺は○○で何人切り殺したかわからない」と鼻高々に語っていたのを聞いたことがある。そのときは見栄を張って自分の武勇を語っているのだぐらいにしか思わなかったが、この演説で偉い軍人たちまでが同じようなことをいっているのを聞くと、まんざら嘘でもないように思えた(昭和十六年一月、時の東条陸相は大陸での日本軍の暴虐が目にあまり、『戦陣訓』を発表して将兵を戒めたはずだった)。

 しかし、そうした勇ましい軍人の演説も戦況の不利のせいか、二、三回で立ち消えとなり、その後は忠君愛国や義理人情を鼓吹する浪花節大会がたまに開かれた。

 ところで、役所が防衛局と名が変わってうれしかったのは、やっと技手(ぎて、判任官)になれたことだった。私のように提灯学校しか出ていない者には、技手は永久に夢だと思っていたから、急に偉くなれた喜びはたいそう大きかった。しかし月給は技手補(雇)時代とかわらず六十五円で、職名を上げて誇りを持たせ、この決戦下に内面から少しでも多く働かせようという偉い人たちの考えだったらしい。とはいえ東京都になっても、私の場合、資材不足のせいで仕事はそれまでと少しも変わらず、防衛らしい仕事はなにもなかった。

 防衛局になって時局的な仕事に防火改修工事があった。それは別の課でやっていた仕事だったが、初めのころその課の友人から、いい内職があるからやらないかといわれたもので、食糧の闇買いに苦しんでいた私はその話に飛びついた。

画像 仕事というのは、木造建物(当時、建物はほとんど木造だった)の密集した都心、日本橋とか浅草にある木造家屋の難燃化工事のための図面を作成することだった。

 家と家とのあいだが四十センチもないようなところへ潜りこんで、軒高とか開口部の位置や大きさを調べ、その実測をもとに立面図を作って、燃えやすい木造外壁部分を燃えにくいモルタル塗りにかえるためや防火雨戸を取りつけるための設計図づくりだった。

 日曜日などに一日中やらされるものだから、帰って来ると体中が蜘蛛の巣だらけになってしまう大変な仕事だったが、報酬はなかなかよくて、おかげで大いに食糧の闇買いのたすけになった。図面ができると友人のところまで持っていき、しばらくすると金を払ってくれる(一ヵ月二、三十円稼いだ)。私はその友人が内職の元締めをしているのだとばかり思っていたが、二ヵ月ほどして、それは防衛局が帝都の難燃化政策として民間の設計業者に委託した仕事だということがわかった。友人は当時その担当課にいて、業者に仕事を発注し、できた図面を審査する立場にあった。

 緊急を要する工事だけに、各業者への割当てが多く、人手不足に悩む業者は期限内にできそうもない仕事を、逆に私たちに内職としてまわしてくれているのだった。業者は自分のところで設計したことにして、役所から受け取った料金から経費を差し引いて私たちにわけてくれるのだ。発注者が仕事をして、できた図面を審査するのだから、多少の間違いがあっても咎められることはなく、一度もやり直しをさせられたことはなかった。

 友人は「絶対に人にいうな」と口止めし、私には何か汚職をしているような後ろめたさがあったが、背に腹はかえられず、知らないふりをして内職を続けた。偉い人はそうした事実を知っていながら、緊急工事の完遂のために見て見ぬふりをしていたようである。

 この仕事を半年ほど続けたが、おかげでその間、食料不足をなんとか切り抜けることができた。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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