初の東京空襲


 私が枯木山と荒海山の旅から帰ってすぐ、昭和十七年四月十八日に最初の東京空襲があった。戦勝に酔っていた人々にはえらいショックだった。私は山へ行って本当によかったと思った。こうした事態になると、もう山などとはいっていられなかったからである。

 この日、私は本庁で仕事をしていたが、空襲のあったのが昼ごろで、警報の出るのが遅れたせいか、サイレンと同時に屋上に上がってみたが、敵機はもう逃げてしまった後で、飛行機はまったく見えなかった。


画像 黒い飛行機が低空で飛んで行ったとか街の中心部が数ヵ所やられたとか、噂はすぐ飛んだが、そんな飛行機の姿もまったく見なかったし、爆音ひとつ聞かなかった。

 念のため二、三日、中心街をほうぼう見て歩いたが、その痕跡などなにもなかった。だから私など何かの間違いだろうと思ったほどだ。そして空襲なんて大したことはないものだと思うようになった。

 大本営によると、敵B25十六機が分散飛来、うち六機撃墜、被害軽微と発表され、撃墜された一機が靖国神社に陳列されたのを見て、初めて空襲の事実だったことを知ったくらいだった。


画像 後でわかったことだが、敵空母ホーネットが日本近海に出撃し、このとき空襲を敢行したらしいが、当時、日本の機動艦隊は西南太平洋に作戦出動中で、日本近海は隙だらけだったといわれる。

 また六機撃墜は真っ赤な嘘で一機も墜ちず、靖国社頭の一機は大陸の日本占領地内に不時着した二機のうちの一機を急いで持ってきたものだといわれた。

 しかし当時はそうした事実は何も知らされず、六機撃墜に大拍手を送ったものだった。その後、空襲は一ヵ月、二ヵ月とたっても来るようすもなく、一時期の緊張も薄れて元の平静さに戻った。けれども防空演習だけはいっそうさかんに行われた。しかし、このときの空襲は日本艦隊に大きな衝撃を与え、山本連合艦隊司令長官に敵撃滅の一大決戦を行う腹を決めさせたといわれる。

 四月末、任期満了の衆議院選挙が行われたが、これは東条内閣が戦争に協力する議会を作るための翼賛選挙だった。政府推薦の議員当選者が全議席数の八割をこえ、東条首相の独裁体制が固まり、言論の自由もくそもなく、われわれの生活は挙げて戦争一本に絞られることになっていった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 大田


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