大間崎へ、下北西部要塞地帯への旅 後編


前回の「大間崎へ、下北西部要塞地帯への旅 前編」からの続き。


 牛滝を発ったのは午前十時に近かった。これから五里(二十キロ)、佐井まで、津軽海峡に沿った旅が始まる。仏ヶ浦へは断崖絶壁続きで歩けず、山沿いの崖上の道を歩かなければならなかった。幽かに残る踏み跡を、足元の感触で草をわけて進む。残雪はなかったが、この道を今年になって歩くのは私が初めてのように思われた。ここも昼なお暗い原生林で、すぐ左手は海のはずれだがまったく見えず、上り下りの激しい道だった。今日も原生林の上をざわざわと何かが渡って行く音が聞こえていた。道はやがて海のなかに雪崩れ落ちるように消え、その崖の中腹に出ると、突然、紺碧の海と仏ヶ浦の壮麗な海岸が眼下に見下ろされた。何の標識もないが、容易ならざる景観でそれとわかる。

 佐井への小道は山の上を、さらに真っ直ぐに進む。途中、人が海岸を下ったらしい踏み跡が本道からわかれていた。私はここで宿で作ってくれた二つの握り飯のうちの一つと、飴菓子の袋をリュックから取り出した。飴は八戸の酒保からもらったものだった。リュックは叢に隠して海岸へ下るために急直な崖を下る。浜には壊れかかった小屋があり、人影はなかったが、針金で厳重に縛られたアルミの弁当箱が三つ置いてあった。よく見るとはるか波打ち際の岩礁で、海女が三人、海草でも採っている姿が見えた。私もそこに風呂敷包みを置き、菓子の袋だけを持って海岸の見物に出かけた。

 仏ヶ浦は一名仏ヶ宇陀ともいわれ、ものの本によると「淡青色を帯びたる白色の玻璃質流紋岩(はりしつりゅうもんがん)の層灰岩が、海波の浸食によって生じた波蝕崖に、風蝕と雨蝕とが加わって、いろいろな異形を生じた奇勝である」と書かれている。親子岩、十三仏、地蔵岩、如来頭岩、天竜岩、片岩、五百羅漢、蓬莱岩、香炉岩、燭台岩、蝋燭岩など、仏に関係のある名がついているところから、仏ヶ浦と呼ばれるようになったという。

 岩の高さは十メートルぐらいのものから七十メートルもあるかと思われるものもある。標識もないからどれがどれだかわからないが、、形から勝手に想像して見て歩いた。千帖敷きもある大岩礁、妙義の奇を一堂に集めた奇峰、尖峰の起伏、怪奇幽玄な大洞窟、崩れ落ちんばかりに伸ばしきった千仞の大絶壁、白雪万丈の大怒濤、紺碧の水を湛える千尋の深淵、北の海のもつ豪壮さは、まさに奇景絶景の一大集団場であった。仏ヶ浦は何億年もの時の流れを表情豊かに見せてくれているのであった。

 だがこの喜びの後、また災難が待ちかまえていた。さっきの小屋に戻ったときだった。私の風呂敷包みは乱暴に開けられ、大事ななかのものがあたりに散乱していた。お金が盗まれたのかと思うと全身が凍った。放り出してある財布を夢中になって拾い、なかを調べてみた。お金はちゃんと入っている。ところが金のつぎに大切な握り飯は影も形もない。いったい何者のしわざなのか。私は海女たちに聞いてみた。
「それは烏のしわざだろう」
と教えてくれた。海女たちが弁当箱を厳重に縛っている意味がそれでやっとわかった。口惜しくて空を睨んだが、烏はどこにも見えなかった。

 そうこうしているうちに、さっきリュックを置いて来たあたりで、しきりに烏の鳴き騒ぐ声が聞こえる。仏ヶ浦見物がまだ少し残っていたが、いやな予感がして見物を途中で打ち切り、一目散に山の上へ駆け登った。悪い予感は的中していて、ここでもリュックは上手に開けられ、なかの荷物は全部外に放り出されていた。米の入った袋はずたずたにひきちぎられ、、なかの米は全部食べられていた。もちろん握り飯も食べられてしまい、食糧一切を失ってしまった。これから四里(十六キロ)以上もある道を佐井まで歩けるだろうか。あの尻屋崎での空腹地獄の記憶がふたたび甦って途方にくれた。

 さいわい、手に持っていた菓子がまだ半分袋に残っている。飴を頼りに一刻も早く佐井に近づくことだと気を取り直し、リュックを背負うと懸命に歩き出した。そしてしあわせなことに福浦崎の大きな鼻をこえると、それから道は平坦な海沿いとなり、それまでの上り下りの苦しさはなくなった。やがて襲って来るであろう空腹に怯えて、海岸を歩きながら岩場にへばりついていた雲丹をとって食べたり、若布のような海草を拾って噛み噛み歩いた。

 福浦、長後、磯谷と点在する漁村の間隔は長く、その間の風光は仏ヶ浦の壮絶さとは逆に、南画を見るような優美さだった。しかし、漁村に入ってもほとんど人影を見ることはなかった。ここもまた北欧風の洋館づくりの建物が多かったが、空腹に怯えて、そうした秘境の風光をゆっくり見る余裕もなく、、ひたすら佐井まで急ぎに急いだ。その緊張のせいか、それほど空腹感に悩まされることもなく、弁天島の見える丘の上に着いたとき、目の下には村とは思えないような大きな佐井の街が広がっていた。やっとまた下界に戻って来られたのだ。

 佐井の街に着いたのはすでに夕方だったが、私が訪ねて行った川崎という宿では、わけを話すと気の毒がって米なしで気持ちよく泊めてくれた。そして私が東京の者だと知ると、その対応もきわめて丁重になった。

 私はこの旅ではぜひとも大間崎の灯台へ行ってみたいと思っていた。いよいよ明日その夢がかなうと思うと、心が弾んでその夜はなかなか寝つけなかった。ところが、それまでずっとよかった天気が、夜半になって雨模様となり、明日の天気がちょっと心配になった。

 翌朝、食事をすまして旅支度をしていると、私を訪ねて来た人がいた。こんなところに知り合いはいないはずだがと不審に思っていると、突然、がらりと部屋の襖が開いて目つきの鋭い人相の悪い男が入って来た。私服を着ているのではっきりわからなかったが、、どうやら刑事か憲兵といった感じだった。自分の身分を明かすわけでもなく、横柄な態度で、部屋に入るなり私の前に座りこんだ。私はその男を見ただけで怯えてしまった。男は私に念を押すように、
「東京の者だそうだが、こんなところへ何の用があって来たのだ」
と聞く。私は、
「観光で景色を見に来たのです」
と答えたが、戦時中、文化の果てるこの北の地方に観光などと、そんな酔狂なことをする人はなく、私の説明はまったく通用しなかった。釈明すればするほど彼に不審の材料を与えたようだった。そのうえ驚いたことには湯野川から野平を越して海岸伝いに歩いてきた私の行程を詳しく知っている。戦時下の日本で、このあたりは北辺を守る要塞地帯となっており、たえずどこかで監視の目が光っていたのであろう。要塞地帯とは聞いていたが、これほど厳しいところとは思わなかった。

 いろいろ尋問された挙句、持ちもの一切を調べられた。私はそれまでも旅に出るとよく途中の風景をスケッチしたものだが、今回は要塞地帯であり、用心して一枚の絵も描いていなかった。それにこのころはまだカメラなど買える身分ではなかったからよかったようなものの、もしカメラなぞ持っていたらなお大変だったろう。

 ところが、私はいつの旅でも小さなメモ帖だけは持っていて、旅の記録としてそれにコースの所要時間とか、周囲の状況などを、自分だけにわかる記号で速記式に書いておき、帰ってからそれをもとに旅行記を書くことを楽しみにしていた。そのメモ帖が出てきたために、これは何だ、何か調べ歩いているのではないかと、不審者としてえらく疑われてしまった。急いで書く略号のため、見方によっては暗号のようにも見える。私は逐一説明したが、自分でも二日前に書いたものでも即答できないものがあって、それでちょっとでも口籠ると、いっそう怪しまれることになった。しかし、持ちもののなかから徴用解除の令書や、弘前師団長の徴用に対する感謝状などが出てくると、少しは応対も穏やかになったが、メモ帖は結局取り上げられてしまった。

 そして、今日は灯台を見に行ってはいけないと厳命された。本籍から住所、氏名、年齢までの取り調べは一時間以上もかかり、やっと放免されたが、部屋を出るとき、ふたたび振り返って、
「もし灯台なんかに行ったら、生きては帰れないと思え」
と捨て台詞を残して帰って行った。

 私がどうして灯台へ行くことがわかったのか不思議に思ったが、それは昨日親切な宿の主人が大間の役場へ了解をとってくれたのが原因だと気がついた。男の帰った後、私はおそらく不審者(スパイ?)として軍に報告されるのだろうと思った。このころの軍は聖戦完遂に支障と思われる者は、どしどし兵隊にとって戦地へ送ってしまうという噂があったから、そんなことになったら大変と、以後二年間はずいぶん心配した。ともかくこんな事件にひっかかって、夢にまで見た大間崎への旅はあえなくつぶされてしまった。宿ではこのへんを見知らぬ人が一人でうろついていると、どんな災難がふりかかるかしれないから、今日は真っ直ぐバスで帰ったほうがいいと忠告してくれた。

 私は佐井からバスに乗り、その夜は下風呂温泉で、この旅最後の一夜をすごすことにした。宿では下風呂に泊まると聞くと、宿泊用の米を三合わけてくれた。

 佐井から下風呂まで約十里、津軽海峡の海岸は大間まで延びる鉄道工事が急ピッチで進められていて、もうそこには下北の静けさはなかった。バスの車窓から慌しい工事のようすを見て、大間崎では何かとてつもない秘密の大工事が行われている気配で、やはり見に行かなくてよかったと改めて思った。

 私の見た下風呂温泉は津軽海峡の海っぺりにあったが、温泉場特有ののんびりした雰囲気はなく、薄暗く陰気な感じさえした。宿に内湯はなく、近くに共同浴場があるだけで、入浴ごとに一回四銭をとられた。草津と同種の強い酸性泉で、三日も入っていると腰部が爛れて歩けなくなるほどとかで、みな褌をしめ、腰部を隠して四つん這いになって、湯に入る姿がちょっと不気味だった。脱衣所で見た効能書には、花柳病、皮膚病に特効ありと書いてあって、それを見た私は温泉に浸かるのは一度で止めてしまった。

 夜、海を見に海岸へ出てみた。津軽海峡は果てしない闇に包まれ、北海道の恵山岬であろうか、灯台の灯が夜露に濡れて明滅していた。漆黒の闇のなかに一筋の光を見ていると、いまさらながらはるかな遠い旅を肌に感じて早く東京へ帰りたいと強く思った。

 翌日、私は大畑まで歩き列車に乗った。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

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竜飛も大間も、かつては津軽海峡を航行する船舶を監視する重要拠点であり、竜飛にはいまだにトーチカが残存しているのを見たことがある。
戦時中、機雷によって日本の多くの艦船が沈められ、それは戦後もしばらく続いた。

今でこそ、樹上の音は日本最北限のニホンザルですよ、確たる漁業権も存在しないからこそ食べられたウニなんですね、と簡単に思うけれど、当時、齢三十になろうとする末夫さんも、予備知識として当然抑えておかなければならない情報収集には限界があり、特に軍事機密である要塞地帯の認識がありながら、それでも目指した大間崎にたどり着けなかったことは致し方ないことと思い、昭和17年4月の下北を想像しながら読み、転記した。

マグロ、そして最近では原発も話題に上る大間だが、都会で簡単に食べられるマグロを食いに出向く人は多くはいない。
竜飛同様、常に風の強い土地だが、晴れていれば函館山も恵山も指呼の距離である。
それほど眺望が良くても、本州最北端の地というだけでは観光地として成立しにくい面もあろう。
実際に訪れてみると「お父さん、密漁はしないでね」や「本州最北端の酒屋」などの看板ばかりが印象に深い。
しかしこれからは電源三法交付金に依存しつつ、原発と運命共同体となる大間を、我々は見ることになるのだろう。
そこに函館の意思が反映されることは、多分ないと思われる。


※ 太田


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