浅間神社と国分寺巡り


前回は、当方の事情で昭和十八年の三陸への「買い出し」を載せたが、今回はまた、昭和十年代始めに戻る。
昭和十二年一月五日、まだ正月気分が抜けないであろう、末夫さんの山梨への一日小旅行である。

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浅間神社は甲斐の国一ノ宮で国弊中社で有る。
中央線日下部駅より一里十丁、石和駅よりは一里六丁で達する。
山梨縣東八代郡一の宮村に有り、日下部駅よりも、又、石和駅よりもバスが有る。
徒歩なれば少し遠いが、日下部駅より行く方が道のわかりがよい。
途中は各れよりも風景が良く、奥秩父連峰や南アルプス連峰、富士、御坂山塊、小金沢、大菩薩連峰等を周囲に望み、はるか下方に甲府盆地を見る事が出来る。

浅間神社は垂仁天皇正月、はじめて神山の麓に創祀せられ、後、清和天皇の貞観七年十二月九日、今の地に遷祀せられたものなり。
最初の宮は今山宮と云ひて、攝社となっている。(明治40.8.2 国宝となる)
御祭神は大山祇神の御姣、木花咲耶姫命で有る。
命は天皇の御正統たる瓊瓊杵尊の妃となり給ひて、ホデリ、ホスセリ、ホオリを生みたまいたる大神で有る。
木花咲耶姫命は艶麗優美の御容姿をお備え、孝順推譲の美徳を兼ね備えたる日本女性の規範で有ると云ふ。
其の神徳も又、実に広大なるもので、特に山、火、鎮護、農蚕、酒造、安産、婚儀、子授けの神として有名で有る。
社殿は素木造りで、屋根は茅葺の質素なもので有る。
又、本殿の玉垣内には夫婦梅と云ふ陰陽二つづつの実を結ぶ神木有り。
嗣子なき者、此の実を食すれば子宝を得ると云われて居り、古来、毎年陰暦四月第二亥の日に、梅折枝神事が行はれるのは有名で有る。

甲斐の国分寺はすぐこの近く、一ノ宮字国分に有り、国分寺は聖武天皇(約一千二百年前)の御世、国家安寧を祈り、国民を教化するため、詔により国毎に立てられたものなり。
往時の礎石は現在の寺の堂宇前と後とに有り、前方に有るのは鼓皷、棲々鐘棲の礎石で有る。
寺の後部に有るのが金堂の礎石で、此こは今、墓地となっている。
又、寺の境内より道を一つ隔てた所に一小区割が有って、こゝには七層塔の礎石が有る。
礎石の数より行くと、金堂最も大きい礎石も現在約三十余石を存している。
各れも文部大臣指定の史跡で有る。
現在の寺は勿論往古のものではないが、山門と薬師堂、本堂、僧房が有り、昔よりの由緒ある歴史を今に伝えている。
寺には境内より発掘せられた唐草瓦や丸瓦、軒先丸瓦等が有りて、頼めば見せてくれる。
現在でも附近の畑や礎石の有る附近には無数の瓦の破片(主として平瓦のもの)が有り、時々、唐草瓦や巴瓦等の破片も発見せられる。



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夢のような与太話ではあるが、もし国家財政が潤沢で、私にハコモノ行政のすべてを任せてくれるのであれば、私はぜひ全国に乱立させたい。
それも耐用年数が数十年というような、鉄とコンクリートのバカバカしいものではなく、今回の記事にあるような国分寺の伽藍復活建立や、争乱や戦火で喪失した大寺やお城の完全なる再建だ。
もちろん法隆寺のように、千三百年経とうとも、百年に一度の修理程度で済む堂々たる木造の建造物に限る。
堂塔の内部には、数百年も時が流れれば、確実に国宝になるような精緻な仏像も安置する。
お城は堀を巡らせて水を湛え、土台は石垣積みからしっかりと築城する。
東京には江戸城を建てよう。
安土や静岡や仙台や岡山を始め、コンクリートの大阪や名古屋なども然り。
復元できるものはすべて再建しよう。
お寺でいえば、大きいところでは金閣寺や、四天王寺や西大寺の伽藍すべて、東大寺は東西七重塔や、まだ全容が解明されていない桜井市の百済大寺など、数え上げればきりがない。
しかし、そうなると保守管理に携わる人員も予算も少なくて済んでしまうから、恣意的に「文化」をはき違えている霞が関は絶対に困るだろうな。
そこを我慢させて、高級官僚やOBたちには受け付けで拝観者の「もぎり」をやって貰いたい。
もちろん派遣扱いで、報酬は世間相場の時給制での話だ。(太田)


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