宗吾 成田 三里塚 芝山巡り


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宗吾霊堂、成田山新勝寺、香取神宮周辺は、末夫さんが繰り返し訪れた馴染みの土地である。
急に思い立って、上野の自宅から簡単に行けたことも大きな要因だろう。
この昭和9年は、7年の5・15事件や11年の2・26事件の狭間の年であり、国内の政情はカオスへと流れ、庶民もこれからの国の先行きに漠然とした不安を抱いていた時期だった。
末夫さんが宗吾や成田を訪れたのは4月22日。
翌月の5月30日には東郷平八郎元帥が死去し、6月には国葬が営まれている。
文中の成宗鉄道も今はない。
富国強兵、軍事力増強を錦の御旗とする国策の前に、鉄路は順次敷設されたり、また撤去されている。
そんな時代の小旅行だった。

以下は、末夫さんの言葉を借りれば「貧困と絶望の連続だった」昭和八年の記載である。

 昭和七年から八年にかけて世の中は暗さを増していった。ひどい不況と失業者の氾濫、満州への侵略の拡大、あるいは反戦傾向も手伝って、若い人たちのあいだに左翼思想が伝染病のように広がり、政府はこの取り締まりに躍起となった。警視庁の特高部が先頭になり、赤狩りが各所で行われた。昭和八年、日本は国際連盟を脱退、世界の孤児となり、非常時という言葉が日常語となった。第一回の防空演習が行われたのもこの年である。
 こうなると、私のささやかな旅にも暗い影を落とすようになった。満足な旅費もなく、真夜中の田舎道を提灯片手にひっそり歩いたり、駅の待合室で夜明けを待っていたりすると、刑事などからよく、
「おまえは共青(共産青年同盟員)だろう」
 といわれたりした。警察は恐ろしかったから、私も反抗的な態度はとらず、平身低頭、何をいわれても素直に受け答えし、放免されたときは、
「ご苦労様です」
 と心にもないお世辞をいって別れたものである。束の間の憩いを求めて旅に出たのに、こうした不愉快さと屈辱を味わわされると、旅は滅茶苦茶にされ、出発時間も遅くなってしまい、途中で引き返さざるを得なかったこともたびたびだった。
 あのころの若者は、少し頭がよいと赤にかぶれ、体が弱いと肺病に罹り(国民の約二割以上が結核に罹っていた)、気の弱い人は神経衰弱になって世の中から脱落することが多かった。そのどれにも入らない単純な人が、社会のために縁の下の力持ちとなって働いていたように思う。私の体重は、栄養不良のせいか痩せていて、肺病を心配したり、神経衰弱になりかかったが、山へ登ったり山歩きをしたおかげで大事にはいたらなかった。二十歳の兵隊検査のときには十一貫(約四一キロ)しかなく、骸骨のように痩せていたため兵役には適さないと思われたのだろうか、丙種合格で、以後、兵隊とは縁が切れた。

< 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」 より抜粋 >

そして末夫さんは昭和九年を迎える。
 
 四月になって東京府庁の属官の世話で、ようやく府の正規の職員として勤められるようになった。部署は営繕課で傭人として日給一円だった。逓信省を辞めようと、人一倍面倒を見てくれた係長のところへ挨拶に行くと、係長は、
「もう少し我慢していてくれれば逓信省に入れてやるから」
といってくれた。しかし、私は二年間の愚劣すぎる役人社会に何の魅力も感じなくなっていたし、こんなところにいても、私のような学歴のない人間は一生梲(うだつ)が上がらないことはわかりきっていた。実社会へ出るにしても、もっと勉強していい学校に入り、実力第一の社会で思う存分働きたかった。
 考えてみると、東京府庁も逓信省より一回り小さな役所にはちがいなかった。嫌な役人生活にまた入るのかと思うと心は憂鬱だった。父や母はこの失業時代にいいところへ入れたといって手放しで喜んでいたし、骨折って役所に入れてくれた属官にも義理があり、いまさら辞めるわけにもいかなかったから、実検に合格するまで二、三年我慢して府庁に勤めることにした。
 私が府庁に入ったとき、営繕課は男ばかりで四十人の職員と給仕がいた。大学出が二人、専門学校出が三人で、あとはみな私と同じ乙種実業学校出の四十近いおじさんたちだった。なかには羽織袴に白いあご髭をはやした、士族のなれの果てのような威厳のある老人もいた。みな親切で、役所の仕事のやり方を教えてくれて、学歴競争をするような人は一人もいなかった。技術者として腕に自信があるからで、事務屋とはまったく別な世界だった。所かわれば品かわるというが、こうした環境は私にはとてもありがたかった。
 そのころは老人年金などというものがなかったから、年をとった親の面倒を子供が見るのは当たり前だった。私も働くと、月三十円の給料のうち二十円は家に入れ、残りの十円が私の小遣いになった。これでは好きな旅にも行けなかったから、大いに内職をやって金を稼いだ。その年のお中元に母にいわれて、経理の主任のところへ一円の商品券を持って行った。すると年末は三十二円となり、営繕監督員として雇員の辞令を受けた。そして年末に初めてボーナスをもらい、それまで歩いて通っていた役所に、省線電車のパスを買って通勤できるようになった。
 また正月に逓信省の係長の家へ年始の挨拶に行くと、奥さんが、
「月給が四十円あれば世帯が持てるから、そうしたらいいお嫁さんを世話してあげる」
 といってくれた。このころは物価も安かったし、一人口は食えなくても二人口は食えるという。月給が四十円あれば嫁さんをもらっても月五円は貯金できた時代だった。

< 同抜粋 >

成宗電車は紆余曲折を経て、後に、当時桜の名所として有名だった三里塚から外房近くの総武本線八日市場、そして落花生の産地で有名な八街へ分岐して営業されていたようだ。
それらは陸軍施設のある場所への物資輸送補完ルートでもあったらしい。
いずれにせよ、物量減や利用者減で、時期を待たずに廃線の運命をたどることは仕方なかった。
末夫さんも成宗電車にはあまり関心を示していない。
この鉄道の運命を予測できていれば、神社仏閣より優先して頻繁に通っただろうことは間違いない。(太田)


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