大菩薩峠越え


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1996年8月1日 (木曜日)

車を飛ばし、午前5時20分、上日川峠に到着。
まず驚いたのは長兵衛山荘の変貌ぶりだった。
記憶では古い峠の好もしい小屋だったが、赤い屋根のペンション風の建物に変わっている。
若い女の子なら喜びそうだが、我々中年オヤジ族には少々恥ずかしい外観だ。
名前も「ロッヂ長兵衛」と変わっている。
宿泊客だろう、若い男女がこんな朝早くから辺りを徘徊している。
どうやらバードウォッチングらしいが、サンダル履きでペタペタ歩いている図は今まで見られなかった光景だ。
駐車場もきれいに舗装され、ちらほらと他県ナンバーの車が停まっている。
変わっていないのは、ここからの南アの眺めだけだ。

5時45分スタート。
連合赤軍によって一躍有名になってしまった福ちゃん荘までは車道を行く。
大菩薩気象援助局入口と書かれてある標識を右に見ながら進み、まだひっそりと静まり返っている福ちゃん荘の正面から唐松尾根に取り付く。
最初の部分は簡易舗装だがそれもすぐに尽き、俄然、山道らしくなる。
高度を稼ぐにしたがって背後の眺望が開け、富士山がすっきりと姿を現すのはいつものことだが、振り返りつつ登るこの道はアルバイトの苦労も忘れさせてくれる良いコースだ。
北側に雲は多いものの、まるで秋のように澄んだ大気のお陰で、それほど汗をかくこともなく清々しい尾根歩きが出来る。
やがて傾斜が緩くなって自然林のプロムナードを行けば、右手に妙見ノ頭、大菩薩峠、そして熊沢山までの稜線が見えて来る。
それらはもう指呼の距離にあり、すでにかなりの高度を稼いでいることが判る。

樹林帯を抜けるといっぺんに視界が広がった。
甲府盆地は低い雲に埋め尽くされてしまっているが、そのはるか奥に目をやれば南アが横一列に並び、富士山もなだらかな裾を優雅に広げている。
手前の日川上部は高原状に開け、闊達な気に満ちている。
しかしこの高原を区切るように大規模なダム工事が進行しており、削り取られた森林の跡が無残に赤茶けた地肌をさらしている。
ダム湖が出現すれば大きく景観も変わり、それと同時にこの地を訪れる人たちの質も変貌して行くのだろう。
どう変質するかは語るまでもない。

カヤトの原を最後の登りでぐんぐん高度を上げ、雷岩に到着した。
そしてぬかるんだ原生林の中を大菩薩嶺へと向かう。
靴を汚さぬように足場を選びながら、7時20分、2,057メートルのピークに立った。
見通しも利かず、ゆっくりするような場所ではないので早々に退散し、雷岩まで戻って休憩とする。
いつの間にか下界を覆っていた雲が取れ、塩山の町並みがはっきりして来た。
眺望を楽しみながら、静かな朝の気に包まれて至福の時を過ごす。
しかし腹立たしいことに、ここにもハエや小蜂がおり、しつこく付きまとう。
名残は惜しいが、腰を上げることにした。

カヤトの中を軽快な稜線漫歩となる。
大菩薩はこの辺りからがハイライトというべき部分で、急いで通過するにはあまりにももったいない。
かつて下りに使って膝を痛めた富士見新道を右に分け、妙見ノ頭の南側を巻いて、避難小屋の建つ賽の河原の旧峠へ下り立つ。
明治初期まで青梅街道はこの峠を越えていたが、遭難者などもあり、現在の峠に移し替えられたという。
こうして今は穏やかな夏の朝日を浴びているが、さえぎるもののない吹雪の冬など、その厳しさはいかばかりかと思う。

やや登って、1,950メートルの親不知ノ頭に出る。
半端な時間だが、ここで朝昼兼用の食事にする。
塩山市が建てた「NHK大河ドラマ武田信玄タイトルバックロケ地」という、景観を考慮しない無神経な看板を苦々しく睨みながら、やや離れた露岩に腰を落ち着ける。
富士山と正対すると、その手前のダム工事の全貌が否応なしに視界に割り込んで来るので、ヘソ曲がりのようだが富士山に背を向け、三頭山、御前山、大岳山の奥多摩三山の横位置からの連なりを眺めながら、コンビニのおにぎりを頬張る。
どうもハエがいないと思ったら、まだ成熟しきっていないアキアカネが数匹、辺りを旋回している。
非常に有難かった。

朝餉の煙が立つ介山荘の方から、今日はじめて出会う登山者が登って来た。
二十代の可愛らしい女性二人組だ。
好天と眺望に恵まれた感激を、しきりに語り合っている。
かつて、山に登る女性に美人はいない、という失敬な迷言のようなものがあったが、決してそんなことはない。
年齢に関係なく、山には素敵な女性が多い。
また、女性のスッピンは山の中ではことさら健康的で美しく見えるし、なにより皆さんの表情は生き生きとしている。
一期一会の挨拶を交わし合い、それぞれの行程を消化すべく先を目指す。
やがて二人、三人と、介山荘を経て登って来る登山者の数が増えて来た。
ほとんどが介山荘泊まりの人たちだろう。

ウグイスの声を聞きながら峠へ下る。
中里介山の文学碑を見て介山荘へ。
小屋はすでに店を開けて土産物を並べていたが、ひっそりとして人の気配は感じられない。
ただ、宿泊棟の裏に軽の四駆車が停まっていたのには鼻白んでしまった。

介山荘を過ぎると、道はすぐに自然林の中を熊沢山への登りになる。
コメツガなどを横目に見て軽くひと汗かき、登り切ったところで再び視界が開けた。
明るく開放的な石丸峠の草原が足下に現れ、ここまで来ると小金沢連嶺の連なりがグンと近くなる。
四方に人の姿も見えない石丸峠で小休止する。
峠名の由来は知っているが、ここには書かない。

5分ほどで立ち上がり、南に向かう。
が、コースはクマザサに埋もれ、すぐに撃退されてしまった。
仕方なく、牛ノ寝方向の細い踏み跡をわずかにたどり、朽ちて鉄骨だけになった小屋跡の横から天狗棚山のピークを越える。
正面に見える雁ガ腹摺山手前の谷では、何やら工事が進んでいるようだ。
新しく付けられた林道がヘビのようにのたくり、傷ついた山肌が痛々しい。
この谷は葛野川上流の小金沢だろう。
それにしても、東西で大々的に進行する自然破壊が腹立たしい。

予定外のアルバイトに少し消耗し、下ったところが天上の別天地、狼平だ。
今日の隠れメインともいうべき場所で、高原状に広がる伸びやかな草地は日本全国、有名無名の避暑地、別荘地に引けを取らない魅力的なところだ。
知る人ぞ知る背の高い一本の木があり、これが大きなアクセントになっている。
かつてはその名の通り、オオカミが群れをなして跳梁していたのだろうか。
安っぽい表現しか出来ないが、そんな空想は大いにロマンをかき立ててくれる。
木陰で再び小休止。
独り占めの楽園はあまりにも贅沢すぎて、逆に落ち着かないくらいだ。
大菩薩だけしか知らずに下山してしまう人が可哀想に思える。

時計は10時を回り、やや雲が多くなって来た。
東の奥多摩方向では積乱雲が立ち上がり、目の前の小金沢山(小金沢連嶺最高峰、雨沢ノ頭)の上辺りにも、ちょっと気になる雲がかかり始めている。
この小金沢山をピストンして来ようと、ザックを藪にデポして歩き出す。
しかし数百メートル進んだところで再び撃退を余儀なくされ、あえなくUターン。
激しい藪こぎに今度は精神が消耗し、ほうほうの体で狼平まで戻った。

もうこれで下山しようと決め、撤退を開始する。
天狗棚山を登り返す気力もないので、エイ、ままよ、とばかりに藪の中を巻き、もちろんスパッツを着けるのも面倒なので裾を濡らして石丸峠まで引き返した。
ここからは真西に上日川峠まで下ることにする。
すぐに崩壊地を越え、面白くもない平坦な道を行く。
何気なく左の小金沢山を見ると、雷雲が頂上付近に掛かっていた。
素直に撤退して正解だった。

落葉松の林に入ると道は急降下を始めた。
ストックを伸ばす。
ちらほらと白樺も混じり、ところどころにアヤメも咲く美しい林相だが、あまりそれらを愛でる余裕はない。
とにかく急な下りが延々と続く。
高度を下げるにしたがってダム工事の騒音が大きくなって来た。
いい加減下り、もうこれ以上下ると、海抜をマイナスしてしまうのではないかと半ば本気で心配になった頃、やっと上日川峠へ続く林道に飛び出した。
ここには、「単独登山はやめましょう」の看板があった。
単独登山の四文字が赤字で書かれてある。
ハーイ、と返事だけは元気良く、そのまま林道を横切り、少し歩くと沢に出た。
ここの冷たい水で喉を潤したかったが、流れはあいにく雨後のような濁りで、口をつける気にはならない。
それに考えてみれば、このわずか上流には数軒の山小屋もあるのだ。
たとえ煮沸したとしても遠慮したい。

風の通わない蒸し暑い道を行くと、石丸峠の名の由来となった陽石が、二代目として路傍に鎮座していた。
峠の名の由来となったくらいだから信仰の対象でもあったのだろう。
形状から察するに、子宝や安産などの御利益か。
現在はその信仰がどのように続いているのかいないのかは知らない。
いまさら手を合わせる必要もないので無視をする。
小さな流れを跨いだところで12時になり、それと同時に意外と近い場所で爆発音が轟いた。
ダム工事の発破だろうが、腹立たしい音である。

嵯峨塩への分岐点に、廃屋となった大菩薩館が朽ちかけていた。
夏木立に包まれたそれは不気味に静まり返っており、なんとも気味が悪い。
それでもせっかく通りすがったのだから素通りはもったいないと思い直し、土足のままで申し訳ないが、プチ探検をさせてもらう。
これが夜の肝試しなら、いくらお金を積まれても嫌だ。
二階への階段もあったが、そんな勇気もない。

荒れるに任せた大菩薩館を後に、12時20分、上日川峠に戻った。
とたんにタライの底が抜けたような夕立ち。
あぶないところだった。(太田)



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