関東大震災以前


 日清、日露の戦争に勝った日本は世界の一等国にのし上がり、平和博覧会を開いて内外に日本の力を示し、国内の不況による沈滞を打破することに努めた。しかし、一等国日本の庶民の生活はいっこうに改善されず、あらゆる面で立ち遅れていた。私の長屋など、溝(どぶ)のすえた臭いが立ちこめている路地奥にあって、衛生思想ひとつとってみても、ひどいもので、東京と大阪などにチブスやコレラが大発生して国民を恐怖におとしいれた。どこの家にもネズミはたくさんいて、昼間は天井で騒ぎ、夜は部屋に出てきて足を噛んだ。ハエがごはんの上にたかっていても平気だった。私の母など大きなノミをとると、口にくわえて歯で潰した。私の家へ来るご用聞きなど、目の前にハエがとんでいると、両手でパチンと挟んで揉み潰してしまう。だが、さすがの私もこればかりはできなかった。人々の生活は苦しく、食べることに追われていて、病気は恐れたが予防にまでは手がまわらなかった。私の家もご多分にもれず、どん底生活が続いていた。父のアルバイトもほとんどなく、いつもかつかつの生活で、暗い電灯の下で膝を突き合わせ、
「もう死んでしまいたい」
 と青い顔をして父と母がよく話していた。


「汽車が好き、山は友だち」の序章の一部、末夫少年が尋常小学校時代の回想である。
長谷川家は当時、上野に近い谷中清水町というところに暮らしていた。
家族構成は、両親、姉、兄、兄、兄、兄、末夫少年、そして妹の九人家族だった。
やがて一週間程度の短い間だが、父親が蒸発する。

 貧困に疲れ、出口のない貧しさに、前後の見境もなく、逃げ道をそうした方法に求めたようだった。父は翌日になっても帰らず、数日間、音信は絶えた。

末夫さんの言葉を借りれば、「貧乏からの刹那的な逃避」である。
やがて父親は仙台蒲鉾を土産に、元気な顔で帰宅する。

「東北はひどいものだ。われわれの貧乏などその仲間にも入らない」
 といって、その窮状を母に話した。東京の乞食よりひどいその生活を見てきた父は、まるで人がかわったように、貪欲に元気に働いた。そしてこのときから、三度のご飯に半分麦を混ぜて食べるようになり、百枚貼って一銭という袋貼りの内職を自分からすすんでするようになった。
 父と母は一日中夢中になってこの仕事をしたが、慣れてくると、一人で一日に五千枚近くも貼れるようになったし、日曜日など家族総がかりで、一日に一万枚も貼れるようになった。日給一円をもらっても、足代を差し引いたりする場合もあるから、下手な手間取りよりもこのほうが儲けがよいと、いっそう熱を入れて袋貼りに励んだ。私はまだ幼かったから袋は貼れなかったが、仕上がった袋を問屋に持って行くのが仕事だった。そのころはどんなに生活が苦しくても、表面上は内職をすることはえらい恥とされていたから、人にわからないようにいつも夜遅く、黒い大風呂敷に包んで家を出たものだった。


原文を忠実に写しているので、文中の不適切な表現は敢えてそのままにした。
どうかご理解いただきたい。

稼ぐに追いつく貧乏なしで、長谷川家の経済状態も平常に戻る。
同時に、末夫少年は一人で日帰りの汽車旅を楽しんだ。
日光、熊谷、笹子、静岡、国府津などへ出掛け、ささやかな土産を買って帰り、両親をいつも喜ばせた。

 ひた隠しにしていた袋貼りの内職は、いつか町内に知れわたってしまい、私は学校で、
「おまえの家では袋貼りの内職をしたり、麦飯を食ったりしているのか?」
 といわれて、からかわれた。事実、家はひどい貧乏だったし、私は勉強もできなかったから、馬鹿にされる条件は揃っていた。いつも仲間はずれにされたから学校に行くのが死ぬほど嫌だった。しかし、このことは自分でも意気地のないことだと思ったし、恥ずかしくも思ったから、父や母にはとてもいえなかった。まして、いまの子供たちのように、いとも簡単に自殺してしまうなんてことは、このうえない親不孝であり、親の悲しみを考えれば、とてもできることではなかった。けれども、このころからひどい劣等感と孤独感が深く私の心に刻みこまれて、その後もなかなか消えなかった。しかし、いまになって考えてみると、この少年時代のいじめを耐え抜いた経験は、その後におこるさまざまな苦難を切り抜ける力になったのではないかと思う。
 私の住む町には金持ちと貧乏人が混在していた。金持ち階級は私の住む長屋より十倍もある門構えの家に住み、爺やや婆やがいて、その家のお嬢さんは一日中震える声を張り上げて歌をうたったり、ピアノやお琴を調べたり、若い息子たちはバイオリンを弾いたり、高価な自動車を乗りまわしたりして、仕事もしないで優雅に暮らしていた。
 そうした人々の暮らしぶりを見るにつけ、子供心にも私の家では、なぜ年中働きづめに働いても乞食のような生活しかできないのか、どうしても納得がいかなかった。あるとき私は母にそのわけを聞いてみた。しかし、母は、
「お金がたくさんあるからお金持ちなのさ!」
 と、ただ一言いっただけだった。


こうして末夫少年の人格が形成され、堅実な暮らしを模索しつつ成長して行くことになる。
父や兄たちが鉄道関係の仕事に従事していたこともあり、末夫少年もごく自然に汽車旅の魅力に目覚めた。
やがて車窓から見える山並にも関心が拡がり、「汽車が好き、山は友だち」そのままのライフスタイルが出来上がる。
末夫少年にはお馴染みだった上野公園の西郷さんの銅像は高村光太郎の父、光雲により明治三十一年に完成。
そして末夫少年は、ここ上野で震災に遭遇する。(太田)



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