テーマ:東京

疎開の混乱ぶりに国滅亡の姿を見る

 世の中がこんな状態になると、本当に毎日が死との対面だった。明日という日がどうなるのか、まったく期待は持てなかった。空襲のあるたびに役所の人が、一人二人と隠れん坊でもするように消えて行った。  私に自転車を貸し出してくれた二人の用度係の人も、ともに三月以来、どこへ行ったのか行方がわからなかった。なかには恐怖のあまり役所に無断で…
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家を失った都民のための濠舎づくり

 昭和二十年に入って役所で何をしていたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。ただ、三月の空襲のとき、区役所へ仮庁舎建設に出勤したことと、その後、ときどき宿直をして庁舎を守るようになったこと、そして四月ごろから家を失った都民のために濠舎づくりが奨励されて、係長がモデル濠舎の案を立て、私たちがその設計図を引き、六月に日比谷…
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シャベルや鍬、蝋、焼け跡に物を拾う

 物をもらったり、拾ったりするといえば、役所の倉庫の焼けた地下足袋の底ゴムをもらってきたのもその一つだが、三月の大空襲の後、焼け跡から鉄の車輪を拾ってきて手押し車を造ったのもその一つで、空襲の合間を見ては朝早くから夕方遅くまで、この手押し車を押して不足する燃料を補うために焼け跡をほっつき歩き、焼け木杭を拾い集めた。  焼け跡は…
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防空群長、横穴濠へ待避と灯火管制

 昭和十九年の四月から私は隣組の防空群長になっていた。初めのうちは大したこともなかったが、その年の十一月から本格的な空襲が始まると忙しくなり、二十年に入ってからは夜もおちおち眠れないほどになった。  それにこの冬の寒さは二十年来といわれる厳しさで、昼間こそそれほどでもなかったが、夜は実につらかった。ほとんど毎日のように警報は鳴…
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三月から五月にかけての東京大空襲

 東京は前後三回の大空襲を受けて焼き払われた。その初めは三月九日夜半から翌日の未明にかけてB29百三十機(三百機ともいわれた)による下町への焼夷弾攻撃だった。当初は少数機が飛来したが、すぐ飛び去って警報が解除になり、ほっとしたとき本隊が低空で少数機に分散侵入、正確に目標を摑み虱潰しに一つ残らず焼き払った。下町は燃えやす…
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空腹の日々

 海のかなたでの戦局は期待に反して重大化していたが、国内の生活もさらにいっそうの苦しさを増していった。  一月に戦費調達のため、政府は直接税・間接税の大幅値上げ案を決め、間接税は一足早く二月中旬実施といわれ、それによると清酒一升(1・8リットル)一級七円が十二円に、ビール一本九十銭が一円三十銭に、ウイスキー四合瓶(720ミリリ…
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東京都の誕生

 昭和十八年七月、東京は府と市が合併して東京都と名を変えた。この非常時に大東亜の中心・東京が府と市の二重構造となっていては何かと行政の円滑を欠くという理由からで、強力な体制を作るのが目的だったようだ。予定では十月発足だったが、内外の情勢の急迫で七月に早まった。  それまで知事官房営繕課だった私の勤務も防衛局勤務となり、帝都防衛…
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初の東京空襲

 私が枯木山と荒海山の旅から帰ってすぐ、昭和十七年四月十八日に最初の東京空襲があった。戦勝に酔っていた人々にはえらいショックだった。私は山へ行って本当によかったと思った。こうした事態になると、もう山などとはいっていられなかったからである。  この日、私は本庁で仕事をしていたが、空襲のあったのが昼ごろで、警報の出るのが遅れたせい…
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昭和十七年

 昭和十七四月上旬、下北の旅を終えて一路東京へ戻る夜汽車のなかで、帰ったら久しぶりに北関東の山を思う存分旅してみようと考えていた。しかし、家に帰りつくとそれは甘い夢であった。軍の一員から一介の地方人に戻ってみると、戦時下の都会生活の厳しさは想像以上で、そんな暢気なことをいっている場合ではなかった。第一、食糧の不足と生活必需品の逼迫に…
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