テーマ:空襲

四男の兄の見舞いに身重の妻と塩屋への旅 1

 焼け野原の水戸、灰燼に帰した日立  こんな生きにくい世の中になったのに、昭和二十年十一月、私はやむを得ない用事のため、妻と二人で戦後初めての旅をすることになった。終戦直前、福島県の海岸町小名浜へ工場ぐるみ疎開した四男の兄の会社が終戦とともに倒産してしまい、小さな町工場だっただけに退職金も出ず、東京からついて行った工員たち…
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家を失った都民のための濠舎づくり

 昭和二十年に入って役所で何をしていたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。ただ、三月の空襲のとき、区役所へ仮庁舎建設に出勤したことと、その後、ときどき宿直をして庁舎を守るようになったこと、そして四月ごろから家を失った都民のために濠舎づくりが奨励されて、係長がモデル濠舎の案を立て、私たちがその設計図を引き、六月に日比谷…
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宿直と半焼けの地下足袋の底ゴム

 三月の大空襲の後、校舎を焼夷弾から守るために中学校以上の学校では生徒が泊まり込みをするようになった。役所でも庁舎を防衛するために数日おきに宿直をするようになったが、私にとって、この宿直はなによりも恐ろしかった。私の留守中、家にもし焼夷弾でも落とされたら、老齢で足腰の不自由になった母を安全な場所へ連れ出すことは、ひ弱な兄には…
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防空群長、横穴濠へ待避と灯火管制

 昭和十九年の四月から私は隣組の防空群長になっていた。初めのうちは大したこともなかったが、その年の十一月から本格的な空襲が始まると忙しくなり、二十年に入ってからは夜もおちおち眠れないほどになった。  それにこの冬の寒さは二十年来といわれる厳しさで、昼間こそそれほどでもなかったが、夜は実につらかった。ほとんど毎日のように警報は鳴…
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三月から五月にかけての東京大空襲

 東京は前後三回の大空襲を受けて焼き払われた。その初めは三月九日夜半から翌日の未明にかけてB29百三十機(三百機ともいわれた)による下町への焼夷弾攻撃だった。当初は少数機が飛来したが、すぐ飛び去って警報が解除になり、ほっとしたとき本隊が低空で少数機に分散侵入、正確に目標を摑み虱潰しに一つ残らず焼き払った。下町は燃えやす…
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空襲につぐ空襲で恐怖の八ヵ月

 第二回目の東京大空襲は四月十三日夜半から十四日明け方にかけ、B29百七十機をもって行われた。このときは東京の山ノ手方面が攻撃され、焼夷弾による市街の無差別攻撃だった。一日おいた十五日にもB29二百機が、京浜地区と帝都城南地区を大爆撃して去って行った。  名古屋地区はときどき空襲を受けたが、五月十四日の大空襲はひどかったら…
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昭和二十年

 昭和二十年と年は改まったが、この年は日本国中が空襲で始まり、空襲で終る恐ろしい八ヵ月だった。それに日本は敵に取り囲まれ、ますます深刻化する食糧不安と熾烈をきわめる敵の攻撃に、殺されるか飢え死にかとただおろおろするばかりであった。  外にあっては一月上旬、アメリカはフィリピンのルソン島に上陸、二月上旬、マニラを占領、そして二月…
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建物の強制疎開と始まった空襲

 猿島郡へ買い出しに行くようになってから、建築資材を欲しがる農家がかなり多いことを知った。この年の初め、政府は防空上の目的で都内の建物の疎開を強制的に行うことを決め、夏ごろからさかんに各所で建物疎開が始まった。私の役所でも壊すことが仕事の一つになり、あちこちで役所の建物の取り壊しの監督をした。  取り壊しは時間がないせいか…
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初の東京空襲

 私が枯木山と荒海山の旅から帰ってすぐ、昭和十七年四月十八日に最初の東京空襲があった。戦勝に酔っていた人々にはえらいショックだった。私は山へ行って本当によかったと思った。こうした事態になると、もう山などとはいっていられなかったからである。  この日、私は本庁で仕事をしていたが、空襲のあったのが昼ごろで、警報の出るのが遅れたせい…
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