テーマ:長谷川末夫

終戦―安堵と混乱の日々

 終戦とともに建物疎開は中止となり、大都市への再転入は抑制された。八月二十日には灯火管制は廃止され、天気予報も復活した。十月になると、集団疎開をしていた学童が東京に帰って来て、焼けた校舎の片隅で青空教室が開かれた。  八月三十日、マッカーサー元帥が厚木に到着し、前後して米軍が続々と進駐して来た。初めて見る彼らの顔は明る…
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栗橋での敗戦の噂。八月十五日の放送

   戦争がここまで来ると、いくら私でももう丸一日かかる買い出しには行けなくなった。食糧はあと数日を残すのみとなり、その心細さに八月中旬のある日、半日で言って来られる栗橋へ、妻と二人でカボチャの買い出しに出かけた。  その日、カボチャをわけてもらって栗橋駅へ戻ったが、どうしたことかいっこうに帰りの汽車が来ない。しかたなく栗橋…
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昭和十八年、臨戦態勢の強化と山本五十六元帥の戦死

 昭和十八年、新しい年を迎えたが、戦局の悪化は決戦体制の強化をもたらし、われわれの生活にも影響して苦しい生活の幕開きとなった。  元旦から一ヵ月二五立方メートルという、ただでさえ少ないガスが二三立方メートルに減らされて、正月らしい気分は味わえず、町で映画や演劇を見ようとすれば冷たい目で見られ、家庭ではおもしろくもない「愛国百人…
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八幡平からの帰路、田代平で道に迷う

昭和十五年から八戸での足かけ三年間の飛行場づくりの間、末夫さんは仕事の合間を見つけては方々を歩き回った。 北の旅はどれもこれも苦難のつきまとう淋しい旅だったようだ。 今回は死に直面した末夫さんの、果てしない妄想にお付き合い願いたい。  私が八戸へ行って間もない昭和十五年の秋、青森県の七戸町の西方に立つ八幡岳(1020メ…
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昭和八年

昭和八年の原稿が2本続いたので、ここでその年の内容にも触れて置かねばなるまい。 書き進めていた時代からは数年さかのぼることになるが、末夫さんの著書「汽車が好き、山は友だち」から、八年の部分を抜粋する。 のっけから「役所に入って絶望した」とあって、現在の役人天国と比べれば、そんな時代だったのかと思う反面、給料は安くても、羨ましい悩…
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昭和十三年

八月十五日が過ぎると、メディアは一斉に沈黙する。 タレントのゴシップだけ追っていればいいものを、ワイドショーまでが「戦後六十五年!」を連呼していたが、そんなことなどもう知らないよ、とばかりに、テレビが垂れ流すのは、猛暑の話題ばかりだ。 靖国へ行く、行かないなどは、毎年繰り返される予定調和のようなもので、最近では左右の対立も、まる…
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八幡平から籐七温泉へ

 前回の「八幡平登山」からの続き。  さて山頂の快をつくしたら、いよいよ下山だ。道はまず籐七温泉へ一時間、見晴らしのよい高山帯を緩やかに下る。時間に余裕があれば入浴していきたいところだ。ここから松尾鉱山の専用鉄道屋敷台駅までは、ゆっくり歩いて五時間はかかる。途中に人家はなく八幡平のなだらかに延びた高原の上を歩いて下るのだが…
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汽車が好き、山は友だち

当ブログは今のところ70年以上も昔の記録をアップしている。 10年ひと昔というが、内容はかなり古い。 現在は昭和12年~14年にかけてのものを追っている。 それでも、軍靴の足音が響き渡る時代の記録を遺す作業は重要だとの認識の元、作業をやめるわけにはいかない。 では、いつものように末夫さんの文章を見てみよう。 時代は昭和…
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試行錯誤その2

末夫さんの原稿ファイルを見ていると、その中に以下のような「目次」がある。 昭和11年から14年にかけてのものだ。 以後も旅は続くので、14年の後半に一度、それまで書き溜めた原稿を整理したことが判る。 こちらはそれを元に、順次ブログへアップしているのだが、それでも原稿は目次通りには保存されていない。 これが混乱の原因で、エント…
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牛久女化稲荷

昭和初期の失業地獄から昭和五年の世界大恐慌と、時代は不況の嵐に見舞われていた。 当時の日本の主幹産業である生糸の価格暴落、都会で見つけることの出来ない就職口に見切りをつけ、失業者は農村に仕事を求めた。 しかし皮肉にも豊作による米価下落、絵に描いたような典型的な豊作貧乏。 野菜農家にしても、キャベツ50個で煙草の「敷島」1箱の価…
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関東大震災

 東京に未曽有の大地震がおきたのは大正十二年九月一日で、その日は小学校四年の第二学期の始業式の日だった。  式が終り、家へ帰って昼飯を食べ、上野の山へ汽車見物にでも行こうかと家を出た途端、街角の電柱がいきなり私の頭にぶつかってきた。何がなんだかわからなかったが、向こう側の長屋の屋根瓦がザーッと滝のように落ちてきたのを見て地震だと気…
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関東大震災以前

 日清、日露の戦争に勝った日本は世界の一等国にのし上がり、平和博覧会を開いて内外に日本の力を示し、国内の不況による沈滞を打破することに努めた。しかし、一等国日本の庶民の生活はいっこうに改善されず、あらゆる面で立ち遅れていた。私の長屋など、溝(どぶ)のすえた臭いが立ちこめている路地奥にあって、衛生思想ひとつとってみても、ひどいもので、…
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玉原越

昭和7年の大日本帝国陸地測量部の「追貝」5万分の一の地図によると玉原越えの道は里道で聨路(れんろと読むか)の実線と破線のつながりが夜後から上発地まで続いているのを読むことが出来る。この地図は末夫さんが当時持っていったもので裏には沼田発の列車の時刻が書かれている。今では玉原ダムが出来て車で走り抜けられるようだが玉原スキー場から先藤原湖方面…
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御岳 大岳 鋸山縱走

大岳山は子供だったころよく行った山である。以来行くこともなくなったのでどんな山であったのか私は記録していないので忘れてしまったのだが、大岳山という名前は忘れなかった。自宅の多摩川の土手に立つと良く山が見え、末夫さんを車椅子で連れ出すと指呼の先に見えたのが、丹沢山塊と奥多摩の山々だった。今日残された記録を見るに付け彼が青梅街道を行く車の列…
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細尾峠越え

細尾峠は足尾と日光を結ぶ大切な街道で江戸時代には家康を祭った東照宮に向かう例幣使街道のひとつであった。足尾銅山の盛んなころは銅街道と言われていて、戦時中には外国人がこの街道の当たりでザルを持って野草を摘んでいたのを見て何かとても哀れに感じたと末夫さんは本に書いている。この辺りには目立たないが静かな山が多く薬師岳、夕日岳、地蔵岳、中善寺…
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谷川岳登山

谷川岳は秋山郷に移り住むようになって何回となく走り抜ける度に見上げた山で私はまだ登ったことがないのだ。新潟と群馬の境のこの山は冬など一変に風景を代えてしまうほど大きな山なのは感じられる。ことに近くの山から眺める谷川連邦の広さには驚かされる。私が学生の頃の谷川は多くの登山者が登ることで有名で上野発の夜行列車「越後」だったと思うのだが満員…
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吉見ノ百穴

 吉見百穴は知っていたがそれが230余もあって、それが古墳時代の墳墓だったとは知らなかった。東京から比較的近いところにあるせいか何だか馬鹿にして足を向けなかった。今度は吉見ノ百穴だけを目的に行ってみよう。
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赤城山縦走

赤城山は父の母の故郷であったせいかとても気になる山であったようだ。山頂に立つまで何回か挑戦し、その後も何回か登っている。  今では車で大沼まで行けるようだが、昭和7年の赤城山に驚かされる。それでも大きな山なので黒檜山や鈴ケ岳は逆に静かなのだろうか。足尾線から見る赤城もいいのだろう。  ところで上毛三山とは赤城山、榛名山、妙義山でいい…
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始めの一歩

 私は北信州栄村秋山郷で「もっきりや」という小さな山小屋をやっている長谷川好文と申します。 今回このブログを立ち上げようとしたきっかけは亡くなって15年にもなる父、長谷川末夫の残した山と旅の戦前、戦中、戦後の記録を整理していたときに思いつきました。ただその記録が膨大でとても短時間で読みきれることが出来ません。そこで少しづつ皆様と一緒に読…
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