テーマ:買い出し

買い出しに横行するキセルの手口

 切符地獄を何とか通りすぎても、つぎは混雑の激しい列車に乗るのが大変だった。往きはまだ大きな荷物(食糧)を持った人が少なく、デッキにぶら下がる覚悟さえあれば、列車に乗れないということはなかった。  さて、私たちの買い出しは一般の人のように特定の知り合いを頼って食糧をわけてもらうというのではなく、不特定多数の農家を訪ね歩いて物交…
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やくざがしきった上野での切符買い

私が初めて汽車の買い出しに行ったのは、桜の花も散りかけた四月の中ごろだった。想像していたとおり、汽車利用の買い出しの困難さと恐ろしさは、口ではいいあらわせない地獄のドラマを地でいくようなものだった。  その恐ろしさは、まず汽車の切符を買うことから始まる。切符は去年(昭和二十年)の十月から駅に並べば先着順に発売するようになってい…
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集団買い出しと列車地獄物語

 昭和二十年の冬、石炭不足から列車本数の大削減と乗車制限が行われたが、かてて加えて戦後の買い出しは戦前に比べて悪質な集団闇屋が多数乗りこむようになり、列車のなかは不法と暴力が支配する社会の縮図となっていた。  一方、そうしたなかで買い出しを目の敵にする警察の取り締まりも厳しくなり、汽車を利用する買い出しには、実に大変な苦労がつきま…
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食糧がない、石炭がない、電気・ガスもない

 塩屋の旅から帰って来たころから、かつてなかったほど石炭不足がひどくなり、東京鉄道局管内だけでも貯炭量が二日を割るという状態で、鉄道は危篤状態となった。そのため十一月以降は50パーセント以上も列車本数が減ってしまい、乗車制限は厳しくなり、ただでさえ混雑の激しい列車に私たちはもう乗れないだろうとさえ思われた。  そのうえ、さらに…
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常磐線での浮浪児と少女に見る戦後

 泉駅から常磐線の上り列車に乗る。混雑を覚悟していたのに、列車はかなり空いていて座席に座ることができた。しかし、途中から浮浪児のような三人の少年がウイスキーの瓶を片手に持って、ぐでんぐでんに酔っ払って乗りこんできた。  ウイスキーをすっかり飲んでしまうと、空になった瓶を肘かけで叩き割ったり、大きな声であたりかまわずわめきち…
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三世帯同居、一度の買い出しで麦三斗に芋六貫

 日本がアメリカ兵に占領されても私たちの生活にさほど大きな変化もなく、平穏無事とわかった九月に、母を疎開先の稲城村へ迎えに行った。町の貸車屋からリヤカーを借りて自転車の後ろにつけ、妻には電車で先に行かせて、後押しを手伝ってもらって帰って来た。  食糧事情がもう少しよくなるまで疎開先にいてもらいたかったが、稲城村でも食糧は窮屈だ…
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栗橋での敗戦の噂。八月十五日の放送

   戦争がここまで来ると、いくら私でももう丸一日かかる買い出しには行けなくなった。食糧はあと数日を残すのみとなり、その心細さに八月中旬のある日、半日で言って来られる栗橋へ、妻と二人でカボチャの買い出しに出かけた。  その日、カボチャをわけてもらって栗橋駅へ戻ったが、どうしたことかいっこうに帰りの汽車が来ない。しかたなく栗橋…
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シャベルや鍬、蝋、焼け跡に物を拾う

 物をもらったり、拾ったりするといえば、役所の倉庫の焼けた地下足袋の底ゴムをもらってきたのもその一つだが、三月の大空襲の後、焼け跡から鉄の車輪を拾ってきて手押し車を造ったのもその一つで、空襲の合間を見ては朝早くから夕方遅くまで、この手押し車を押して不足する燃料を補うために焼け跡をほっつき歩き、焼け木杭を拾い集めた。  焼け跡は…
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宿直と半焼けの地下足袋の底ゴム

 三月の大空襲の後、校舎を焼夷弾から守るために中学校以上の学校では生徒が泊まり込みをするようになった。役所でも庁舎を防衛するために数日おきに宿直をするようになったが、私にとって、この宿直はなによりも恐ろしかった。私の留守中、家にもし焼夷弾でも落とされたら、老齢で足腰の不自由になった母を安全な場所へ連れ出すことは、ひ弱な兄には…
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建物の強制疎開と始まった空襲

 猿島郡へ買い出しに行くようになってから、建築資材を欲しがる農家がかなり多いことを知った。この年の初め、政府は防空上の目的で都内の建物の疎開を強制的に行うことを決め、夏ごろからさかんに各所で建物疎開が始まった。私の役所でも壊すことが仕事の一つになり、あちこちで役所の建物の取り壊しの監督をした。  取り壊しは時間がないせいか…
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買い出しも旅、茨城の猿島郡まで自転車で 2

 この買い出しに持って行く品物はだいたい役所からの配給品だった。その主たるものを挙げると、作業服上下(年三回ぐらい配給)、ゴム長靴(年に1,5回ぐらい)、軍手、軍足、地下足袋、ズック靴、ゲートル、作業帽(これらは2、3ヵ月に1回)。こうした品物のほかに使い方もわからない分厚いズックの布地二メートルやゴムの氷枕、麻の南京袋、一升瓶に入…
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買い出しも旅、茨城の猿島郡まで自転車で 1

 (昭和19年)九月ごろ、町工場に行っている四男の兄は会社から作業服一揃えに帽子から軍手、軍足、地下足袋までもらって来て、私にこれを食糧と交換して来てくれという。これらは農家でもっとも喜ばれる物物交換の品物だった。私はさらに倹約してためておいた電球と石鹸を添えて、これなら必ず食糧は手に入ると妻と二人で喜び勇んで出かけて行った。 …
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生活窮迫、カボチャを買いに埼玉の栗橋へ

 日光の旅から帰ってきたころ、日本の戦況は予期に反していっそう悪くなっていた。六月中旬、サイパン島に上陸した米軍を撃つべくマリアナ沖海戦(サイパン西方)が行われたが、わがほうは多くの空母、飛行機を失う大敗北といわれ、西太平洋の制海権は完全に敵の手におち、開戦以来最大の重大な局面となった。  このとき大本営は、空母五、戦艦一…
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昭和十八年の山旅と、買い出しのことなど

 この年(転記者注、昭和18年)私の行った主な旅は、一月の阿武隈のほか、四月には猪苗代湖東部の山の旅で、東北本線郡山駅より八幡岳(1102メートル)、会津布引山(1081メートル)に登り、茨城街道を江花(えはな)から東北本線須賀川駅に出た二泊三日の旅では、米八升(十二キロ)入手した。六月には安達太良山麓を一周、赤城平(1050メート…
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同僚Tの失恋と、阿武隈高地の旅

 昭和十八年は前年に比べたら、比較的旅をした年だった。そのきっかけは役所の同僚Tが失恋に悩んでいたときで、彼を元気づけるために正月休みに東北本線二本松駅から常磐線大野駅へと途中にある旭岳(日山、天王山1058メートル)を越え、雪の阿武隈高地横断の旅へと連れて行ったのだが、ちょっとしたことから帰りに少しまとまった食糧を手に入れることが…
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野菜の買い出しに三多摩へ

 北関東の旅を終え、私は何年ぶりかで役所の机に向かって仕事をするようになった。役所での仕事、それは東京府庁の経営する学校や病院、試験場などの増改築や修繕工事などで、図面を書き、工事が始まると、現場を監督して歩くことで、その現場も私の担当は府庁から遠い三多摩の農村地帯が多かった。私は以前から交通費を浮かせるため、こうした現場まわりはい…
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集団買い出しと列車地獄物語

膨大な原稿はあるものの、私の手元にはその半分の画像しかない。 画像も、ほぼ尽きた。 そこで、末夫さんの著書から抜き書きをしてみる。 今まではほぼ年代順にアップしてきたが、これからは順不同で進めて行こうと思う。 私は別の自分のブログも開設している関係で、空いた時間にぼちぼちやるしかないので、どうかお許し願いたい。 話は一…
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食糧豊かな楽園、三陸海岸の栗拾い

三月から四月にかけては、年度またぎで一年でも一番忙しい二ヶ月だ。 どうにか乗り切らねばと思っているうちに、あの3.11が来た。 ちょっとした関わりから被災地へ救援、支援物資を届けに、頻繁に宮城へ往復するようになった。 そうなれば、「もう年度末だから」などと言ってはいられない。 ピストン輸送だけならまだ楽だったが、トラックや人…
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