闇市とスピード籤と白いコッペパン


 こんな苦しい世の中なのに、追い討ちをかけるように、私の家で同居することになった妹の主人の戦時中から勤めていた統制会社が潰れてしまい、わずかな退職金で失業の日々送らざるを得なくなった。二人の子供を抱えた妹の日ごとに暗くなっていく顔を見ていると、私もじっとしていられず、この年の秋、人手不足だった私の役所に就職を頼んでみた。

 このころの役所は、戦前のような官尊民卑の風潮が薄れ、役人は公僕だとされてその威信がひどく低下した時代だった。役人、ことに地方庁の小役人というと、月給は安く、人には小馬鹿にされ、失業者六百万といわれた時代なのに、役所に入ろうという人はあまりいなかった。そのため年齢制限も採用試験もなく、上役の紹介があればいくらでも入れた。

 私のところへもよく徴用時代や復員してきた友人が訪ねて来たが、職もなくぶらぶらしているんだったら、役所にでも入ったらどうだと誘っても、誰一人として入ろうという人がいなかった。そんななかで妹の主人は私の奔走で年末に役所への就職が決まったが、彼でさえ小役人を馬鹿にしていて、一時の腰掛けのつもりで入ったのだった。

 ところが彼は定年まで勤めることになる。そして才気煥発だった彼は私を追い越して昇任試験に合格し、課長にまで昇進した。現在、地方公務員の給与が国家公務員の給与よりも高いと騒がれているが、戦後の混乱から立ち直るためには、少しでも待遇をよくして人材確保につとめないと地方行政の円滑な運営ができなかったやむを得ない事情もあったように思う。


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 終戦後、インフレの元凶だと思っていた闇市を、私などずいぶん憎んだものだった。しかし、闇市は半年もたたないうちに大発展を遂げ、警視庁調べで二月下旬には都内に七万六千軒といわれるほどだった。値段は高いがないものはなく、何といっても食べもの屋が主役だった。そうした悪の華とも見えた闇市も日がたつにつれて見慣れてくると、何もかもが不足な都会にとって、ある意味ではなくてはならない存在となり、私の憤懣もしだいに薄れて、これをたまに利用するようになっていった。

 仕事の途中で空腹に耐えられなくなると、近くの盛り場に行って、鰯の塩焼き二尾六円(鰯のバター丸焼き一尾五円)、烏賊丸煮一パイ五~十円、すいとん一杯五円、肉入り(犬肉?)うどん一杯五円のほか、カボチャご飯、菜っ葉汁(薩摩芋の葉)などをときどき食べるようになった。そして、不潔な感じのわりには、家庭では味わえないようなうまさがあって、隠れた楽しみの一つになった。

 けれども、甘いお汁粉などは有毒甘味料を使うところが多かったし、うっかり呑むと目の潰れるカストリ焼酎などもあったから、そういったものには一度も手を出さなかった。また後になって私が行商をするようになると、農家の欲しがる品物は闇市で買って持って行ったから、時と場合によっては、ずいぶん私にとっては便利な存在だった。

 そしてこの露店もそろそろ世の中が落ち着き出した昭和二十四年秋に廃止と決まり、二十五年の三月にはすべて撤去されて、街からその姿を消してしまったが、足かけ六年、われわれの生活に溶けこんでいた露店がなくなるのは歯が抜けたようで、一抹の淋しささえ感じたものである。

 この年の初め、盛り場では闇市とともに煙草のスピード籤をよく見かけた。一枚二円の籤券を買うと、賞金と煙草十本がもらえるというもので、五本に一本は当たるという謳い文句がえらい人気をよび、何百人と行列を作っていた。配給煙草は男子一人一日三本という厳しい時代だったから、煙草好きにはこのスピード籤がとても魅力だった。

 煙草はやがて五本になるといっていたが、それが実施されたという記憶が私にはない。かわりに六月一日になって、女子にも一ヵ月十本の煙草が配給されるようになった。また年の初め高級煙草の「ピース」十本入り七円、「コロナ」十本入り十円などが、休日だけ一人一箱にかぎって自由販売となったが、数が少ないのでなかなか手に入らず、味は落ちるがいつでも手に入る私製の闇煙草(一本一円)に人気が集中していたから、このスピード籤は実によく売れた。

 一等が百円と煙草十本、二等五十円と煙草十本、三等三十円の賞金だけ、四等煙草十本だけというものだったが、ほとんどがはずれ、たまに当たっても四等だった。この籤を買う人は金より煙草が目当てだったから、四等に当たった人の喜びようは、はたで見ていてもいじらしいほどだった。スピード籤は私も二度買ったが、いずれもはずれた。

 このころには私も大の煙草好きになっていた。不足すると買い出しのついでに茨城県猿島郡の煙草の生産地で乾燥した葉を少しずつ買ってきた。それに少ないとはいえ妻と母のぶんも合せて三人分もらえたから、この乾燥葉を配給品と混ぜて吸えば、煙草で苦労するということはそれひどなかった。

 産地の農家でも、私製煙草をさかんに作っていた。闇値は乾燥葉百匁(375グラム)百五十円、紙巻き煙草一本八十銭(年末には一円になる)、きざみ煙草は産地でのむ人は少なかったから、一個四十円でいくらでも買えた。私はこのきざみをよく買って、買い出しの途中、叢や野の仏の横に腰を下ろして煙管でのんだものだが、そうしていると、自分が昔の旅人にでもなったような気がして、懐古趣味の私にとってそれは心の和む、実に楽しいひとときであった。


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 いまどきこんなことをいっても信じてもらえないだろうが、私は三十三歳になるその年まで食パンというものを一度も食べたことがなかった。幼いころ、母はたまに一個二銭の餡パンをお八つに買ってくれたことはある。貧乏だったせいもあるが、田舎育ちの母は洒落た西洋風の食パンなど決して食べようとはしなかった。米や麦に比較したら、値段は高いし腹持ちもよくないと思ったからだろうが、私の家では食パンは縁遠い存在だった。

 この年の前半の食糧不足は極端にひどく、四月になってアメリカは、メリケン粉1,000トンを放出して日本人を飢餓から救ってくれたが、政府はこれをコッペパンに焼き上げ、一人三個ずつ配給してくれた(パン一個で米100グラム差し引き、一個十七銭だった)。私はパンより米のほうがよかったのだが、それはできず、ほかに食べるものがなかったからそれを食べざるを得なかったが、生まれて初めて食べた色の白いコッペパンは、そのふっくらとした口触りと柔らかさ、それにほのかなバターの香りがして、何もつけるものがなかったけれども、こんな美味なものがこの世にあったのかとそのうまさに吃驚しただけでなく、いまだにこのときのパンの味だけは忘れることができない。

 けれどもうまいパンはたしかに腹持ちがよくなかった。そうかといって、闇で食パンなどとても高くて買えず、たまに子供に滋養のあるものとして買ってやることしかできなかった。私が食パンをいまのように食べるようになったのは、それから十年も後のことである。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記、太田



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