兄の長屋で一泊、塩屋岬の灯台見物


 夕方、宿の女中は別の部屋に私を移してくれた。兄夫婦を迎えに行った妻はなかなか戻って来なかったが、七時になってようやく兄たちを連れて帰って来た。一休みしてから話を聞くと、兄のいるその海岸町には昔から一つの風習があって、隣組のなかで人が死ぬと、その身内はもちろん、親戚もいっさい葬儀に関しては手を出してはならず、隣組の人が三日間仕事を休んで、強制的に葬儀万端を取り行うことになっており、そのかわり三日間というものは、自分の家の飯はとらずにその死者の家で出してくれるものを食べるという。

 運の悪いことに、ちょうどきのう一人の老婆が亡くなって、今日、兄たちが荷車で死者を街のはずれにある火葬場まで運んで行ったために帰りが遅くなり、なかなか来られなかったというのだった。

 久しぶりに会った兄夫婦は、外出用の着替えもないのか、夫婦とも何年も着古した垢染みた作業服ともんぺの見すぼらしい格好で、生活の苦しさはなにより着物が物語っていた。

 私を見た兄は目を潤ませ、安堵の表情を顔に浮かべて、私にまでこんな心配をかけてすまないといって、幾度も頭を下げた。そしてこの海岸町でも闇がさかんだという。小さな街ではほかに仕事もなく、闇屋でもするより生きる手立てはないのだと語った。

 貧乏に痛めつけられていた兄は、こうした温泉旅館に泊まるなどということは初めてだったようで、衣服の汚れを気にしてか座布団にも座らず、おずおずした態度で夕食の膳を運ぶ女中にまで「すみません、すみません」と、いちいち頭を下げているのがいじらしかった。その夜、ゆっくりとこの温泉で兄たちに休養をとってもらった。

 翌日は雨だった。私たちは朝九時ごろ、湯本駅前からバスで海岸町へ向かった。兄は古い木造長屋の一間しかない二階に間借りしていた。何もかも不足なようすが部屋に入った途端に感じられた。障子紙を買う金もないとみえて、二重窓の障子は穴だらけで障子もないに等しく、建てつけの悪い外側のガラス戸の、戸の隙間から吹きこむ湿った風が部屋のなかを寒々としたものにしていた。

 部屋には座布団もなく、小さく切った囲炉裏で義姉は松葉をたいて、雨に濡れた私たちの体を暖めてくれた。部屋の隅には山から取ってきた薪が無造作に積み重ねてあって、押し入れもなく、寝具までがそのまま折り畳んでおいてあった。兄は葬式のあとかたづけがまだ少し残っているからと、すぐ出かけて行った。昼になって私たちは街へ昼飯のおかずを買いに行った。一貫匁(3.75キロ)二十五円で鰯を買う。東京よりは安かった。

 夕方、少し早く帰ってきた兄はMさんを私に紹介してくれた。兄はこのMさんの二階を借りて生活しているのだった。彼には父もなく母もなく、兄弟もいない本当に天涯孤独の靑年である。戦前、兄の勤めていた町工場の社長に拾われ、その工場の屋根裏に寝起きして仕事を手伝っていた。工場がこの町に疎開するとき、彼も一緒について来たのだった。肉親の情愛を知らない彼には、肉親のいる兄を羨む寂しさが顔に溢れているように感じられた。

 夜は囲炉裏を囲んで鰯を焼き、ささやかな夕食をとって、夜遅くまで、いろいろと話は尽きなかった。その夜、母から四百円、三男の兄から二百円預かってきた金を兄に渡した。私も二百円渡す心づもりだったが、持って行った小遣いでは足りず、少し使いこんでしまったので、東京へ帰りしだい送ることにした。

 兄はその金を涙を浮かべておしいただき、これを元手に魚の商売をして、必ず儲けてみせるといった。そして母の身を案じ、自分はこの街に骨を埋める覚悟で働くから安心してくれるようにといい、四、五年先には家の一軒ぐらいは建てたいものだと話した。そして、これから始める商売のことや、この街で知り合った人たちも、みないい人たちだし、生活もしやすいことなど、兄の口から出る言葉は私たちを安心させることばかりだった。二組しかない寝具にその夜は四人が二人ずつくるまって寝た。

 夜来の雨もあがって翌朝は快晴だった。今日は東京へ帰るのだが、せっかくここまで来たのだからと、私は妻を連れて塩屋岬の灯台を見に行くことにした。朝一番の江名(えな)行きのバスに乗る。バスは魚臭の沁みついた人で満員だった。これが兄のいっていた魚の行商人だと思われた。兄もこれからこの人たちに混じってこの商売を始めるのだろう。満員の客を乗せてバスは美しい海岸線を走る。左手は急直の迫った崖で、荒れ狂う太平洋の怒濤が霧となり、バスの車窓を通して顔にぶつかるほどだった。

 終点江名の停留所の前は、魚の買い出し客目当ての露店がずらりと並び、お祭りのような賑やかさである。そして、街全体がおびただしい魚で溢れていた。私たちは江名から約四キロ、銀白に輝く砂浜の海岸を塩屋岬の灯台へと歩いて行った。

 海岸には人の姿をまったく見ない。その無人の浜で男がたった一人、黙々と塩づくりに励んでいた。砂のいっぱい詰まった大きな樽に海水を注ぎこんでは、砂を通して細々と流れ出る水を悠長に下のバケツに受けている。この塩水を釜に入れて煮つめると、一日に二升(約四キロ)ほどの塩がとれるという。
「大変ですね――」
 と私がいうと、
「塩は貴重品だから、これで家族を養うのに十分の収益があるんですよ」
 といって、せっせと海水を樽に流しこんでいた。

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 塩屋岬の灯台は、この海岸の尽きるところにあって、豊間(とよま)の集落から右へと海中に迫(せ)り出している丘を登るのだった。美しい枝ぶりの赤松の林を潜って丘の上に出ると、そこに白衣の天使のような灯台が青空を背にそそり立っていた。

 三方を断崖に囲まれ、太平洋の怒濤は眼下の岩礁に白い飛沫を上げていた。その海鳴りの響きが大地を震わせるほどあたりに木霊して、それはそれは豪壮な一大景観だった。

 灯台の入口には、「灯台員以外の立ち入りを禁ず」と、立て札があったが、構内には人気はなく、なかを見ることはできなかった。そのため灯台のまわりを二、三度歩いて外形を見ただけで丘を下った。途中で会った人に聞くと、この灯台も爆撃を受け、現在は活動をしていないということだった。そして、ここでも死者が出たという悲しい話を聞いた。

 帰りは江名で、土産の魚の干物を買い、兄の家へ午後二時ごろに戻った。一休みして夕方の列車で東京へ帰ることにした。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田





さて、長谷川末夫さんの著書から延々と転記して来ましたが、今回登場した四男の兄は、以後、著書の中には登場しません。そこで、その後の消息を以下に記します。
「四男」の一人息子が2010年に綴った某ブログからの転載です。

※ 文中の「母」は、囲炉裏で松葉を焚いて末夫さん夫婦を暖めてもてなした人。
   「伯父(正確には叔父、注太田)」とあるのは末夫さんです。



        『 親父の涙 』                            
                             

お年頃の娘さんを持つ友人と飲みに行くと、決まって聞かされる愚痴がある。
『娘のために夜遅くまで汗水流して働いているのに、口もロクに聞いてくれないし、帰っても居心地が悪い・・・・。独り身のお前には絶対分かんねえだろうな・・・・。呑気に旅三昧しているお前が羨ましいよ』
と・・・・。
(大きなお世話だと内心思いつつ黙って聞いてあげる・・・大人の対応でしよう)

職場のバイトの女子高生に、
『お父さんの事、どう思ってるの?』
と聞いてみたら、
『汚いし、臭いし、同じ空気を吸っていると思うだけでもう無理・・・』
なんて可愛い顔してシラっと言う。
自分の同級生にも親父を好きだなんていう娘はいないと言う。
挙句の果てに、親父の入った風呂の湯は抜いて入れ替えると言う。
眩暈を感じながら、この時ばかりは、心底友人に同情しました。
そして独り身の幸せに、ほくそ笑んでしまいました。

しかし昔の自分を顧みれば、似たようなもので偉そうなことは言えません。
親父と子供の関係など昔から変わってなどいないのかも・・・・・。



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親父は僕が15歳の冬に交通事故で彼岸に旅立ちました。
親父の年に近づくにつれ、親父がいたら今の自分にどんな言葉をくれるか、考える事が増えました。

親父は、戦火をのがれ工場疎開で当地にやってきた生粋の東京人でした。
浅草をこよなく愛した親父は、帰りたかった東京に戻れず、東京の兄弟からは疎んじられ、泣く泣く、魚と炭鉱しかないこの町で生きるために、魚の行商人になったそうです。
商才などなかった親父は、それこそ当時は食うや食わずだったと母は言います。

やがて僕が生まれ、一生懸命コツコツとまじめに働き続けた親父だったが人が良いのが取り柄で、結果 他人に騙され、裏切られ、何一ついい事などありませんでした。
生活苦からよく母ともめている姿に子供心にも悲しく、辛い思いを感じていました。
「鍵っ子」だった僕は友達が家に帰った後も、ひとりで外で遊んでいました。
テレビが家に来たのは小学校4年の時だったし・・・・・・。



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親父は優しい人で、僕を怒鳴ったり、殴ったりした事はありませんでした。
それでも親父が、親父の生き方が、親父の全てが嫌いで嫌いでたまらなかった。
その優しささえも、卑屈な笑顔も、嫌っていたと思います。
会社員だった友達が羨ましく、なんでこんなのが父親なんだと恨みました。
当然の成り行きで、中学生になり、生意気盛りの僕は猛然と反発しました。
( 家庭内暴力とか警察の厄介になるような事はありませんでしたが )
『親父だったらもっと親父らしく甲斐性をみせろ』
と罵りました。
だから、親父が他界した時、悲しさよりも自分の将来の方が心配でした。

東京の伯父から、
『これからは俺を親父だと思っていつでも遊びに来い』
と言われて、逆に嬉しかった。
そんな伯父が、成人した僕に、
『お前の親父は、お前が生まれた時、それは大変な喜びようで、この子の為に精一杯頑張る』
と語っていたそうです。
実際、親父は僕の為に、精一杯真面目に働いたと思います。
もちろん、精一杯真面目に働いたから、幸せになれるものではありません。
世の中の厳しさ、辛さ、無情さは、個人の努力をすべて正当に評価してはくれません。
逆に正直者故、損する事が多いと思われます。

自分の子の幸せを願わない親などいないと思います。
そんな可愛いはずの息子から、罵詈雑言を浴びせられ、怒りもせずただ黙って聞いていた親父の気持ちはどうだったんだろうと最近強く思います。
言い返せない自分に歯痒さを感じていたのか、「甲斐性のなさ」を恥じていたのか、今では知る術もありません。
その時の親父の顔が、どうしても思い出せません。
ただ、親父の寂しそうだった小さな背中だけが目に焼き付いています。
でも傷ついていたには違いない、もし自分が親父の立場だったら・・・・・・。

誰もが多かれ少なかれ、大人になる為に通り過ぎる道だと友人は言ってくれます。
自分もその考え方に逃げ込みたくなりますが、未だ分かりません。
自分を正当化する逃げ口上にすがる言い訳に思えるからです。

それでも親父とそういった諍いの思い出があるのは、ある意味幸せだと感じている方もいらっしゃるのでしょうね。
小さい時に親父を亡くし、親父の記憶そのものがなかったり、思いの丈を告げたくても、遠く離れていて、それが叶わない人にとっては・・・・・。

この記事を読まれた多くの「親父様」、僕のような不肖の馬鹿息子でも時期が来れば、「親父」の偉大さ、辛さを認め猛省する日がきます。
それまで御自愛し、頑張ってください。




※ 補記、太田

   これを綴った本人も母親も2014年7月に彼岸の人となり、「四男」の家系は途絶えました。


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