八溝山脈の静寂境 尺丈山へ


画像


末夫さんの原稿が清書されていないので、今回も著書から抜き書きで済ませることにする。
言い訳になってしまうが、元原稿は読めないことはない。
それによって、内容の概略はわかる。
しかし転記するにも多くの箇所で判読に時間ばかり消費せざるを得ず、今となっては貴重な記録もここに発表(転記)できないのが残念だ。

今回の記事は、昭和15年当時、まだ誰も注目すらしなかったであろう福島・茨城県境の山旅で、それも標高500メートルほどの山域。
健脚の末夫さんにとっては、登山というより軽いハイキングでしかなかった。
それでも「山と渓谷」に投稿し、みごと掲載された記録だから、ぜひ載せたいのだが、末夫さんも清書する余裕が無かったのだと推測する。
山旅と記録は常にワンセットのはずで、それが出来なかったのは、時節柄、1日でも多くの山野を駆け巡ることに重きを置いていたからだろう。
それは以下の文章でも明らかだ。
末夫さん独特の文字や文体の癖などは、いつも傍にいて父親のそれらを熟知している御子息の好文氏ならば必ず判るだろうし、それによって概略程度は知ることが可能であるものの、氏の多忙も充分に理解しているので無理は言えない。
よって、内容とは関係ないが、末夫さんの著書から昭和15年当時を回想した部分を転載する。
「時節柄」の意味を酌んで頂ければ幸いである。

※ 地図写真や原稿写真はクリックすると拡大されるので、興味のある方は読んでみて下さい。


 昨年(昭和十四年)は非常時だ非常時だと騒いだものだが、そうではあっても新しい年は静かで青空が広がり、町は少しもかわらなかった。私もしだいに非常時という言葉になれて、あまり気にもしなくなった。昨年の後半もそんな気分からずいぶん旅をした。大自然のなかを歩きまわって来ると、帰ってからの気持ちはとても壮快になる。別に薬を飲んだわけでもないのに、心身は実に健やかになった。なぜそうなるのか、そのころの私は別に意識していなかったが、大自然の恩恵とでもいうのだろうか、自然の力の偉大さを無意識にせよ、うすうすながら感じたものである。十四年もついに徴用は来なかった。今年は必ず来ると私の役所でもいっていたし、私も覚悟はしていた。徴用ってどんな仕事をするのか少しもわからなかったが、建築技術の手伝いでもさせられるのだろうくらいには思っていた。前年、役所の先輩が二人、南洋群島へ連れて行かれたのを見て、私も必ずそのようなところへ連れて行かれ、兵隊さんを手伝って同じようなことをさせられるのだろうと思うと気は重かった。その徴用がいつ来るかという不安な気持ちで、年が明けてもどこかへ出かける気にならなかった。
 しかし二月が過ぎても徴用令書は来ない。役所でも四月すぎかななどといわれると、張り詰めた気持ちが緩んでしまい、山へ行きたいという執念が、アル中が酒を止めた後の禁断症状のように頭をもたげてきて鬱々として楽しまなかった。

 この昭和十五年、内地で新聞やラジオを見たり聞いたりしているかぎり、ドイツは破竹の進撃を続け、日本も支那との戦争に決して負けていなかったし、よもや日独がこの戦争に負けるとは夢にも思わなかった。しかし、アメリカは日本を憎み「日米新通商航海条約」を破棄し、無条約時代となった。二月、電力不足で東京は十時をすぎると、商店は大戸を下ろして人通りは絶え、深夜のごとくなった。三月、日刊新聞は用紙節約で朝八ページ、夕刊四ページとなる。五月、米の配給に外米六割混入が決まり、戦費調達のため勧銀が一等一万円の割増金付報国債券を一枚十円で売り出した。六月にはイタリアが英仏に宣戦布告、さらにこの月、砂糖とマッチまで切符制となり、煙草を吸わないけれど甘いものが好きな私はえらく困った。こうしてしだいに私たちの生活状態は悪くなっていった。ところが、一方では戦争景気がさかんで、失業率はゼロとなり、挙国体制で乙女の手まで借りるようになった。私の役所も職員不足で人集めと足止め策の結果、年末には私の月給も五十円になった。家族パスはなくなったが、月一回の汽車旅行ぐらいはできるようになった。徴用は四月になっても来なかった。そうなると今年もまた来ないのじゃないかと思い、我慢しきれなくなって、また私は旅に出かけた。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


失業率がゼロとは現在の日本では想像もつかないことで、夢よもう一度などと密かに企む輩もきっとどこかでまだ棲息しているはずだ。
同じ昭和15年には、西田幾多郎が「最も戒むべきは日本を主体化すること」と、帝国主義に突き進む日本を憂いている。
くれぐれも御用心を。(太田)

画像

画像

画像

画像



"八溝山脈の静寂境 尺丈山へ" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント