船形山縦走


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今回は昭和14年8月の記録だが、下の原稿をご覧頂ければお分かりのように、3枚目あたりから判読不可能になってしまう。
それでも何とか「解読」をすると、それなりに興味深い記述であることがわかった。
それにしても…、である。
これを転記するとすれば、おそらく丸一日以上は必要になると、経験上、見当がつく。
よって、原稿はいつも通り載せるが、最後にまた末夫さんの著書から抜き書きをして、今回の記事とする。


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  船形山に登ったが悪天候に死ぬ思い

 つぎの日は船形山を縦走し、仙山線の熊ヶ根駅まで約四五キロを歩くのだ。朝四時に宿を出発。しかしこの旅はひどい嵐に遭遇して危うく遭難するところだった。

 朝空は曇っていて昨日の晴天が嘘のようだった。そのうちに晴れるだろうとたかをくくって歩いて行ったが、東根街道の新田の部落に着くと、雨がぽつぽつ降ってきた。新田から左へ折れ、船形登山道にかかる。この先に部落はない。両側の山が迫り、狭くなった道を観音寺川に沿って深い谷のなかを登って行く。道は小幅となり、急に深山の趣が深い。黒滝の見えるあたりから左手の尾根上に高く高く黒伏山の壮大な岩壁が望まれた。霧雨程度だった雨が粒となって顔を濡らす。空は荒れ模様で、上空の雲が飛ぶように流れる。道は険阻で苦しい。かなり歩くと、やがて営林署の官舎があったが、廃屋になっていた。官舎をすぎ、さらに登ると藁造りの登山小屋があった。寝具がおいてあったが人の気配はなく、何か女臭い感じのするところで祭壇のようなものもできていた。雨を避けて一休みする。ここは巫女さんがお呪いでもするところなのか気味が悪かった。休んでいるうちに空模様も少しよくなった感じだす、上のほうには最上駕籠(駕籠のような四角い形をした巨大な岩で尾根上に突出している)の岩峰や粟畑(山の名で粟畑のように見える)の奇峰が見え、その山容に魅かれてもう少し行ってみようという気になって険阻な山道をさらに登って行った。粟畑は主稜線上にある突起で、その稜線に辿り着くと、さらにその上にある仙台駕籠、楠峰の壮大な岩峰が見える。悪天候にもかかわらず登高欲をそそられて船形山山頂まで登ってしまった。景観はふたたびひどくなった雨と霧でほとんどわからない。

 ここまではどうにか来られたが、それから先が大変だった。山頂は扁平で見晴らしがよいはずだが、何も見えない。頂上(千五百メートル)には船形神社(御所神社)の小詞がある。ところがここへ着いた途端、高みのせいか風雨と霧が一段とひどくなり二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなった。えらい日に来てしまったと思ったが、とにかく山を下ることだと、山頂で一人万歳三唱して下山にかかる。楠峰への主尾根を戻ると、途中から左へ宮城県側に抜ける御所山林道が続いている。山形県側は灌木と雑草で明るかったが、宮城側は深い原始林で、少しでも風を防ごうと宮城側に下ることにした。風雨はますますひどくなる。道は大倉川の谷のなかへ下るもので風が少しは静かになるかと思ったが、いっそうひどくなり、大倉川に流れこむ枝沢も見る見る水量を増した。丸木橋は流され、渡渉するのに決死の思いだった。三本目の沢では危うく流されそうになったが、風で吹き寄せられた木の枝につかまってどうにかこうにか渡ることができた。天地晦冥、二メートルしか先が見えない。原始林のなかは霧が動き、木が騒ぎ、流水はますます増え、流速は駆け足で山を下る私の足より何倍も速い。この先でまた沢に突き当たったらどうしようかと不安でいっぱいだったが、本流が右手にそれ、枝沢もなかったのでどうにか助かった。しばらく下ると途中に藁小屋が三ヶ所ほどあったが、人はいなかった。休む暇もなく通りすぎ、増水がひどくならないうちに山を下ろうと、必死で駆け下りた。この林道はかなり長かった。苦闘すること四時間、山の嵐の恐ろしさに死ぬ思いだった。全身ぐしょぬれで水のなかを歩いているようだったが、寒さはちっとも感じなかった。やがて左から尾根通しの船形林道がおりてきて合流する。このあたりでどうやら下り終えたらしい。風も少し静かになったようだ。ホッとしたが、道は川のようで、なおも駆け下るとやや大きな道に突き当たった。どっちへ行ったものかわからなかったが、右の道をとる。かなり下ったところで、やっと一軒の民家を発見して駆けこんだ。

 私は泊まるつもりはなかったのだが、この悪天候ではやむを得ないと思い、定義(じょうげ)温泉への道を聞く。定義へは逆にこの道を真っ直ぐ戻った山の上だといい、あそこはふつうの温泉ではないから、こんな日に行っても泊まれないだろうといわれた。途中で定義への別れ道があったはずだが、この嵐で見失ったようだ。貧しそうなその家では泊めてくれそうにもなかったし、付近に宿屋などはないと聞いて、熊ヶ根駅まで、さらに約十二キロを歩くことにした。外はすでに夕暮だった。嵐はいっこうに衰えていない。お詣りしたかった定義如来がどこにあったのかもわからぬままに通りすぎてしまった。このあたりは草深い山のなかと変わらぬ起伏の多い原野だった。最終に間に合うように汽車と競争して嵐の夜を走るのは苦しいというより悲しかった。山は縦走できたが、何も見られずこの年の最後の旅には成果がなかった。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


すでに、当時は予報なども制限されていたのだろうか。
ラジオの気象通報さえ抑えていれば、おおよその天気図は自分でも書けたはず。
もうそれが不可能な時代だったということか。
同時にさまざまな物資不足の影響か、紙質の悪さが気になるところだ。
末夫さんは「この年の最後の旅」と結んでいるが、これは末夫さんの記憶違いで、以後も登山やサイクリングなどで遠方に出掛けている。

それにも増して、この前年の登山原稿も見落として残っていることが判明し、現代を生きるこちらは途方に暮れている。
明らかにこちらのミスで、年代別の原稿の整理が為されていない反省も含め、これからも元原稿の写真を見やすく加工したり、忠実に転記したりと、極力、慎重に取り組むつもりでいる。
今回、三回に分けた「栗駒山縦走 鬼首火山群へ」は、これにて終了。

※ 記 太田



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