汽車が好き、山は友だち


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当ブログは今のところ70年以上も昔の記録をアップしている。
10年ひと昔というが、内容はかなり古い。
現在は昭和12年~14年にかけてのものを追っている。
それでも、軍靴の足音が響き渡る時代の記録を遺す作業は重要だとの認識の元、作業をやめるわけにはいかない。
では、いつものように末夫さんの文章を見てみよう。
時代は昭和13年である。


 昭和十二年の後半、楽しい旅から帰って来て、また非常時という坩堝のなかに組みこまれると、そのつらさがいっそう身にしみた。翌十三年の元旦早々、水戸-大洗-鹿島灘-鹿島と敬神サイクリングをして、日本の戦勝祈願に走った。しかし、近衛首相の「蒋介石を相手とせず」という声明が一月に出て、日支間の成り行きがさらに不安になった。
 アメリカをはじめ欧州各国の支那支援もあって、敵も決して負けてはいなかった。日本国内への戦禍の波及こそなかったが、国民への締めつけは、しだいに強くなっていった。街には出征兵士の行列がいままで以上に続き、軍歌が流れ、千人針はいっそうさかんになった。「贅沢は敵だ」、「貯蓄持久」、「長期建設」等の看板が目につくようになり、四月に国家総動員法が制定され、あらゆるものが軍に握られ、兵隊に関係のない私などもいつどうなるかわからなかった。一方、軍需産業はますますさかんとなり、そのあおりで軍需インフレも高進した。日本が非常時らしくなってきたのに、一方では見えないところで軍人、官僚、資本家が金を儲けすぎたのか、連日連夜の料亭政治がさかえ、大きな料亭は連日満員だった。仕事の帰りに赤坂や新橋を通ると、門前に送り迎えの車が行列をなしていた。私は好きな旅も控えて三度に一度はやめたのに、これを見るとばかばかしくなって旅ぐらい思う存分やろうと思ったものである。

< 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


あの忌まわしい太平洋戦争前夜も、現在と変わらぬ料亭政治がまかり通っていたことは、明記に値するだろう。
料亭街に黒塗りの車が列をなすのは、現在も目にする光景だ。
政治家たちが料亭に落とす原資は、我々が納めた税金が政党助成金となって、花街を潤す構図になっているに違いない。
これが私の錯誤であってくれればいいのだが、こうして貧民の妄想はふくらむのである。

ここでどうしてもお断りして置かなければならないのだが、文中に「支那」の表現がある。
これは侮蔑的、差別的用語であって、当ブログが好むものではないことを承知して頂きたい。
今でも中国に批判的な一部の人たちがネット上で使っているようだが、近隣諸国から「倭猪」や「東夷」、欧米諸国から「ジャップ」と呼ばれてもまったく痛痒を感じない人たちなのだろう。
当然だが、当ブログは不偏不党、非差別のサイトであり、末夫さんとて同様である。
ただ、戦前はそんな表現が当り前の、狂気の時代だった。
私のパソコンでも、単語登録をしない限り、「支那」はそのまま出ない。


 さらにわれわれの周囲では、メーデーの全面禁止、左翼思想の弾圧が強化され、うっかりしたこともいえなくなった。また重要物資である綿糸、揮発油、ガソリンなど三三品目の使用制限が始まり、綿製品は販売禁止になり、新聞、雑誌は用紙制限が強化され、石炭は配給制で、生活必需品の入手も不自由となった。こうなると闇がさかんになり、母は品不足と闇値に悲鳴を上げたが、私は貧困時代を送ってきたから、あまり痛痒を感じなかった。学校出の雇用制限が行われ、あのひどかった失業の時代が嘘のように思えた。各省庁では下駄ばき登庁が許可になり、世は代用品時代で、ランドセルまで紙にかわり、贈りもの廃止、弁当持参など、生活簡素化が通達され、駅などの人力車廃止、バスもガソリンから木炭自動車にかわった。内地では婦人のモンペが大はやり、パーマは自粛で女性美は薄れ、男は長髪もさらば、戦闘帽が流行した。七月の事変記念日には一汁一菜主義も強制され、五円、三円の慰問袋を買わされた。また、うれしいことは五月に東京帝国大学の航空研究所の長距離機が長距離飛行で世界記録を作ったことだった。そして十月、武漢三鎮の占領で提灯行列が行われた。
< 同 抜粋 >


政治が暴走すれば国民生活が疲弊するのはいつの時代も変わらない。
東京帝大の航空研究所機(航研機)が11,651kmの飛行距離世界記録を樹立した同じ五月には、有名な津山三十人殺しの「津山事件」が起こっている。
殺伐とした時代でもあった。


 私はもう家族パスももらえなくなるだろうし、旅もできなくなると覚悟した。私には汽車賃は高いという固定観念があって、運賃は知らなかったので、実際にどのくらいかかるものか調べてみた。上野から青森まで往復で十五円、仙台までが九円、白河五円少々で、これなら少し小遣いを倹約すれば、年に数回の旅はできないこともないと思うと少し気が楽になった。そんなわけで昭和十三年の汽車旅行は、日帰りの小旅行を除けば、それまでのようには行けず、あとは自転車で旅をするくらいだった。しかし、山へ登りたいという気持ちは抑えきれず、自転車を利用して山へ登ったり、泊まりがけで長旅もしたりした。
 やっと手に入れた現在の安定だった。月給も四十円となったし、世帯を持っても贅沢さえしなければ月五円の貯金もできるようになった。戦争はあったけれど、この安定した生活がいつまでも続けばいいと思ったものだ。「苦しいときは旅をしろ」、それは少年時代に自ら身にしみついた確信だった。汽車には乗りにくくなったが、自転車ならいくらでも旅ができた。

< 同 抜粋 >


「汽笛一声新橋を」から、日本は国内に鉄路を延ばし続けて来た。
(大陸に敷設した時代もあったが)
戦後しばらくも、その方針は変わらなかった。
ところが気付いてみると、数十年前から廃線が相次ぎ、廃線跡をたどるブームまで起こっている。
蒸気機関車が静態保存され、郷愁を誘う。
新幹線網がじわじわと延びる。
その陰で、利用者の減少から赤字になり、在来線が淘汰される現実がある。
JR東日本本社ビル前の電飾を見ながら、国家百年の大計とは何だろうと考えた。(太田)

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