やくざがしきった上野での切符買い



私が初めて汽車の買い出しに行ったのは、桜の花も散りかけた四月の中ごろだった。想像していたとおり、汽車利用の買い出しの困難さと恐ろしさは、口ではいいあらわせない地獄のドラマを地でいくようなものだった。

 その恐ろしさは、まず汽車の切符を買うことから始まる。切符は去年(昭和二十年)の十月から駅に並べば先着順に発売するようになっていた。そのときは列車本数の大削減のため極端な切符の発売制限が行われていて、真夜中の一時には駅に並ばないと切符は手に入らなかった。


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 私の家は上野駅に近かったから、役所の友人も連れて集団で行くときには、よく私の家へ泊ってもらった。人々は誰も彼も食糧欲しさに目が眩んでいた。私はみんなから買い出しの上手な男と思われていたから、私と一緒に行けば必ず食糧が手に入ると思われていた。

 そうした人々の期待に責任を感じた私は、上野駅へ並ぶ前の数時間、狭い六帖の部屋で寝もやらず買い出しの講習会を開いた。私が先生になって買い出しのしかたや、銘々が持って来た品物の品定めをして、これは麦一升(1・36)キロ)とか、米二升(3キロ)とかと、物交しやすい基準を決める作戦会議を開いていたのだ。そして真夜中の一時近くになると、「それっ!」とばかりに一斉に上野駅めがけて駆け出して行った。

 集合の場所は上野駅の公園口で、午前一時に駆けつけても、もうかなりの人が並んでいた。四時になると驚いたことにやくざの親分が子分を連れてやって来る。そしてノートを広げて私たちの名前を一人一人聞いて書きこんでいき、定員になると、あぶれた人はいくら泣いてもわめいてももう駄目だった。そしていったん解散して五時にふたたび集合して点呼を受け、それから切符の購入券をもらうのだった。

 私は初めて並んだとき、整理するのは駅員とばかり思っていたのに、やくざだったのにはほとほと呆れた。親分という人はニッカズボンを穿き、黒いワイシャツにソフト帽をかぶった黒ずくめの四十がらみで、目つきの鋭い精悍な顔つきをした男だった。親分のまわりには柄の悪い子分が数人取り巻き、いずれも地べたに座りこんで、行列の動静に睨みを利かせている、実に薄気味悪い存在だった。

 そんなだったから、五時の集合にちょっとでも遅れたり、親分の来るのが二、三分遅れたために、たとえその間、列から見えるところで小用を足していたとしても、点呼のときに列にいなかった者は、理由のいかんを問わずもう駄目だった。

 それに対して、ちょっとでも文句をいおうものなら、待ってましたとばかり子分たちが、野良猫でも引っつかむようにして道路ひとつ隔てた駅舎の正面にあった徳川さんの墓地(文化会館のある左側)へ引き摺りこんで、殴る蹴るの半殺しの目に遭わせた。この墓地には土塀が巡らされていたが、一部が壊れていて自由になかに入ることができた。その塀の向こうでどんなひどい目に遭わされているか、見えなかったけれど、連れこまれた人の悲鳴で想像できた。

 上野駅の公園口は山の上にあって、廃墟と化した下町の焼け野原がよく見えた。そこへ飢えのために幽霊のようになった人々が汽車の切符欲しさに湧いたように集まって来るのだが、ほとんどの人があぶれてしまうのだから、こうしたトラブルはよく見かけたものだが、狂暴と紙一重のこれら必死な人々を抑えるには、あるいはやくざの腕力に頼るよりほかに方法はなかったのかもしれない。

 だが、そうしたトラブルを行列の横で見ていると、その悲鳴を聞くだけで恐ろしさに足が震え、全身に冷水を浴びせられるようになり、その無法ともいえるリンチに対して陰口ひとつ叩く者もいなかった。やくざが勢いを盛り返したのもこのころからのような気がする。

 駅に近かった私たちでさえ、たまには切符の買えない者も出たが、そういう人は残念ながら買い出しを諦めてもらうよりしかたがなかった。ところが、無事に切符の購入券を手に入れたとはいえ、それは汽車買い出しの地獄の一丁目だったのだ。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉




※ 転記、大田



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