当たった内職、六帖に二世帯が住める改造案


 この年(注、昭和21年)の春、長男が生まれ、、子供をもつ喜びとともに肩の荷がぐっと重くなるのを感じた。そして、ふたたび勢いを盛り返したインフレにいっそう苦しめられ、生活を少しでも和らげるために、初夏のころ、内職でもして金を稼ぎたいという考えが頭から離れなくなった。

 ところが、どこを見ても内職などは見つからなかったし、戦時中によくやった買い出しのついでに小豆やお茶などを買って来て、役所へ出勤する前に闇屋でもやってやろうかとも思った、ところが、年の初めごろからそろそろ出まわりだしたいろいろな雑誌、それも紙不足で仙花紙という低級な紙を使った薄っぺらなものだったが、活字と文化に飢えた人たちが、それを買ってむさぼるように読んだものだが、私もその一人だった。そうした雑誌を見て、住生活に悩む人が実に多いことを知った。

 私の家でも三世帯十一人が一軒の家に犇めいていたが、私のところは一階に二間、二階に二間あったからまだよかったけれど、それでも共同生活につきもののトラブルはときどき起きたものである。まして世間一般の家では六帖一間に二世帯なんていうのはざらだったから、トラブルは推して知るべしだった。

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 私はそうした事情を知ると、六帖一間で二世帯が無理なく住める住居の改造案とか、焼け跡に建てる三坪の文化住宅とか、地方に疎開したまま東京に帰れない人々のために、長屋門とか納屋などの遊休建物の住居化などの設計図案を書いて婦人雑誌や住宅雑誌に投稿しようと考えた。

 そして、五月ごろ、いくつかの案を雑誌社数社に送ったところ、そうした企画は時宜に適したものと思われたのか、ほとんどが採用され、これには自分の技術が生きたこともうれしかったが、原稿料がたとえ少しでももらえたことはもっとありがたかった。この原稿料は百円か二百円くらいだったように記憶している。


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 また焼け跡の街を歩いていると、盛り場を中心として何かしら復興の兆しが巻き起こっているのを肌で感じた。それまでは戸板の上で品物を並べて商売し、しこたま儲けた闇商人が、本格的な店舗を造って商売をするようになったためらしかった。

 この商店の復興は引き続いて起こった戦後の建築ブームの先触れだったよyな気がする。ところが、彼らの造っている店舗は私の目から見ると、バラック小屋に毛の生えたようなものばかりで、とても店舗といえるしろものではなかった。

 それでも柱一本、板一枚買うのも容易ではない何もかもが不足の時代だったから、建築にはえらく金がかかったろうと思うと、もったいないと思うと同時に、もう少し研究して店舗らしいものを造ればいいのにと、じっとしていられないほどの焦燥を感じた。

 私は戦前から商店の図案を書くのが好きで、よく懸賞に応募したり、頼まれもしないのに建築図案を書いて、いいものができると一人で悦に入っていたものだが、こうした実情をつぶさに見ると、またひとつ図案を書いて商業雑誌にでも投稿してみようという気になった。

 当時は建物の平面は十五坪(49.5平方メートル)以下に抑えられていたから、十月に小さな住居つき喫茶店の図案を作って投稿したところ、ただちに採用され、それをきっかけに、毎月一回ずつ連載してほしいと頼まれるようになった。

 そのため十二月までに、レストラン、小料理屋、甘味の店と原稿を書き続けた。この原稿料は、ほかに比較してなかなかよく、一回三百円もらえたし、いずれも新円で支払ってくれたから、苦しい生活をかなり和らげることができた。


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 このころは、ひどい食糧不足とインフレで一般国民は四苦八苦していた時代なのに、盛り場には闇市と肩を並べて、人々の顰蹙(ひんしゅく)をよそに料飲店が大っぴらに店を開けていた。これは終戦後、禁止の枠が消滅して営業が行われていた(昭和二十二年七月禁止となる)。

 贅沢な料理を闇成金相手に出してしこたま儲けていたこうした店はあちらこちらにずいぶんあって、おかげで私の原稿も大いに喜ばれたというわけである。

ところで、終戦時の虚脱から覚めると、私の役所でも復興ブームで忙しく、建築資材を極端に節約した都営住宅の建設や、兵舎、休止工場、焼けビルなどを改造して住宅にする工事の仕事に追われる日々だった。そんな役所から帰って来ると、夜遅くまで内職の原稿づくりに勤(いそ)しむのだが、停電になると蝋燭の光に目をしょぼつかせながら、筆を走らせなければならなかった。そのうえ休日には必ず買い出しにも行ったから、ほとんど休む暇はなく八面六臂の働きを毎日続けていたことになる。

 そうでもしないと家族を養っていけなかったからだが、さすがの私もいつまでもこんな生活が続くのかと思うと、うんざりすることがよくあった。食糧がもう少し豊かになって、買い出しも月二回で足りるようになれば、もっとたくさん原稿が書けるのにと思ったものだ。

 そんなときにも苦しい貧困時代をしたなかに生きて来た明治生まれの母は、
「いまにきっといいことがあるから辛抱しなさいよ」
 といって力づけてくれたが、働きたくとも仕事のなかった昔の苦しさを知っている母の目には、働きさえすれば何とかなる私の愚痴など、むしろ贅沢な悩みとさえ映ったようであった。しかし、焼け跡から拾ってきた図面書きの仕事は苦しい生活を何とか切る抜ける大きな力になった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


 

※ 転記、太田




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