昭和二十一年、革命前夜を思わせた皇居前


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 昭和二十一年の年の初め、来日した外国のジャーナリスト(新聞記者?)が日本の現状を見て、春までには一千万人の餓死者が出るだろうと予言したのをなにかで見たことがあった。

 実際にはそこまではいかなかったが、当時のありさまは第三者が見ても、それほどひどいものだった。とくに食糧事情はよくなるどころか、いっそうひどくなった。それに追い討ちをかけるように底なしのインフレが、私たちの生活をどん底に突き落とした。

 私にとって、この困窮の日々は昭和二十三年の秋ごろまで続いたが、とりわけ二十一年と二十二年という年は、そのもっとも苦しい時期に当たる。

 人々は苦しさに耐えきれずデモやストに終始する騒然とした一年だった。この深刻な食糧不足は、進駐軍が存在しなかったら、本当に暴動を引き起こしたかも知れなかった。生活苦も食糧不足が主な原因だった。米の供出は振るわず、日常化した遅配が五月、東京では十二日となり、漸増して七月は三十日を超し、改善される目鼻さえつかなかったが、こうしたピンチにはいつも進駐軍の援助でどうにか切り抜けた。このころの東京はまるで人の懐を当てにしたその日暮らしの惨めな生活そのものだった。

 そのため、少しでも食糧の自家生産をしようと、東京中の空き地という空き地は、戦時中に逆戻りしたように、家庭菜園になっていった。こうした食糧不足の苦しみを端的に物語るショッキングな事件が三月十五日に起こった。歌舞伎の名優十二代片岡仁左衛門の一家五人が、食べものの恨みから使用人に惨殺されるという悲惨なものだった。この一件でも、いかに人々が食糧に苦しんでいたかがわかるというものだ。

 この壊滅的な食糧不安とインフレが引き金となって、宮城前広場や日比谷公園には、過激な人たちが先頭に立ち、何万もの困窮した人々を集めて無能政府の打倒を叫び、米よこせ、賃金上げろ、首切り反対などのデモをたびたび行い、その凄まじさは戦争末期のあの大混乱を思わせた。

 その第一波は、二十一年の初め中国から帰ってきた共産党の野坂参三を歓迎する日比谷公園で開かれた国民大会だった。時の政府は食糧難、就職難、物価騰貴など、何ひとつ改善できない無能政府といわれていたから、大会終了後、会衆三万人は内閣即時退陣、民主戦線結成を叫んでデモ行進、首相官邸に押しかけたのを皮切りに、年末には全官公労など五十万人が皇居前に集まって、生活権確保、吉田内閣打倒国民大会を開催するなど、この年は一年中、集会やデモがあいついだ。

 都民の憩いの場所だった皇居前広場や日比谷公園は革命前夜を思わせる慌しい姿に変わった。これらのデモや集会がピークに達したのは五月だった。五月一日の第十七回メーデーは、皇居前に五十万の民衆が集まって開かれたが、そのあとGHQに押しかけ、民主人民政府の即時樹立を請願してデモに移った。

 ちょうどこのころ、日本の政治は空白の時だった。四月十日に行われた総選挙で、幣原さんの進歩党は鳩山さんの自由党に敗れ、連立を策して幣原さんの居座りが続いたが、野党攻勢で不調に終り、鳩山さんは選挙直後、公職追放でこれまた組閣できず、吉田さんに引き継がれたが、そんなごたごたで五月二十二日、第一次吉田内閣が成立するまでの約四十日間、政治的空白が続いていた。

 こうした政権不在の虚を衝いて、人民政府樹立を請願されたわけだから、マッカーサーにしても穏やかではなかったにちがいない。五月十二日の米よこせデモ、十九日の飯米獲得人民大会が皇居前広場で行われ、飢えた人々が多数集まって気勢を上げ、皇居のなかまで押しかけて天皇に面会を強要し、断られると宮内省の職員に上奏文を手渡した。

 そして溢れた群衆は坂下門で気勢を上げ、デモに移るという騒ぎだった。マッカーサーは五月二十日、しだいにエスカレートしていく集会やデモを暴民デモと見なして、こんご一切許さずと声明を発し、監視を強化したので、さしものデモも少しは静かになっていった。GHQはこうした集会やデモを背後から操っているのは共産党と思ったらしく、このころからマッカーサーの極端な共産主義嫌いが顕著になったように思う。

 ちょうどこのころ、吉田さんは組閣中だった。あまりに激しいデモや座り込みに組閣を断念する寸前までいったらしいが、マッカーサーの暴民デモ禁止の指令に力を得て、五月二十二日、やっと組閣を完了させた。そして五月二十四日、激しい食糧デモに天皇が自らNHKのマイクを通じて食糧危機切り抜けのために国民の協力を要望する異例のラジオ放送が行われた。

 しかし、その後、秋からストライキがまた花盛りとなり、鉄道、港湾(海員組合)、全炭鉱、電気産業、都市交通、教員、新聞放送、映画演劇など、あらゆる企業、職域団体が、首切り反対、賃上げ要求、生活権確保などを掲げてストライキを続けた。昭和二十一年の労働争議件数は一二五八件、参加人員は八六万四千人といわれ、その勢いは年末になっても衰えず、社会党系の総同盟、共産党系の産別などの組織化が進んだ。その労組の力を背にして二十二年の二・一ゼネストへとつき進んでいった。

 私は生来こうしたデモや集会をあまり好まなかったが、自分の困窮を考えて初めのうちは少しでも生活が楽になることを期待して参加したのだけれども、いくらやっても楽にならず、組合の活動も過激な人々が先に立って、生活よりも政治を優先させ、内閣打倒を第一として、われわれの生活は二の次となり、政治闘争の色彩のあまりの濃さに、しだいに嫌気がさしたが、会場には出欠をとる労組員まであらわれて、参加しないと村八分にされるため、無理にでも参加せざるを得なかった。

 こうした騒ぎのなかに船出した第一次吉田内閣は、食糧危機突破内閣として期待されたが、誰がやってもよくなるはずはなく、いっこうに事態は改善されぬままアメリカの食糧援助に頼る以外に道はなかったけれども、それも遅配が緩和される程度で配給量が増えるわけでもなく、慢性的な空腹は買い出しをしないかぎり依然として解消されなかった。

 昭和二十一年の初め、幣原内閣はインフレ退治を目的として、二月十七日、預金の封鎖と新円の切り替えを断行した。三月二日かぎりで旧円の流通は禁止となり、サラリーマンの月給は一ヵ月五百円まで、世帯主は三百円、家族は一人百円を新円払いと決められ、そのほかの金は封鎖となった。これで一番打撃を受けたのは闇成金と金持ちだったろう。

 私の月給は三月に八十五円となり、五百円の月給など一生働いてももらえるとは思ってもいなかったから、われわれ庶民にとってはこうした規制も、さほど気にならなかった。とにかく、この政府の英断でインフレも下火になるだろうと喜んだものだが、吉田内閣に引き継がれた後もインフレはいっこうにおさまる気配はなく、この二十一年の秋には日銀の新円発行高が六一八億円を超し、旧円時代をはるかに上まわってしまったというのには驚いた。

 何のための預金封鎖だったのか、経済に弱い私などにはまったくわからなかったが、新聞などから判断して、切羽詰まった労働攻勢と食料不足、それに産業の荒廃などにその原因があったのではないかと私なりに思ったものである。

 この年の初め、私の役所でも正式に職員組合が結成され、生活危機突破の交渉がこれまで以上に過激に行われて、役所でも千円、千五百円と貸付金の形で支給された。私の月給も六月には百円となり、七月には一気に六百六十円に跳ね上がり、信じられないような気がした。それらはすべて新円で支払われた。

 また政府は米の供出を促すために、秋ごろから供出米代金は全部新円払いとした。そして、政府買い上げの米の価格も、三月三日の物価統制令施行当時、一石(150キロ)三百円だったものを、十月には五百五十円と大幅な値上げを行って、新円で買い上げ供出を促した。

 さらに政府は軍事補償打ち切りにともなう産業界や経済界の再建を図るため、金融緊急措置を改正して、八月十一日、封鎖預金の一口三千円未満を第一封鎖預金、それ以上を第二封鎖預金という二つにわけ、第一封鎖預金は政府が保証して支払いを認めることになった。

 そのほか進駐軍関係の支出も大変だったろうし、こうした当時やむを得ないと思われることが積もり積もって新円を乱発し、半年もたたないうちに、以前よりひどいインフレを招く結果になってしまったようだった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記、太田


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