食糧がない、石炭がない、電気・ガスもない


 塩屋の旅から帰って来たころから、かつてなかったほど石炭不足がひどくなり、東京鉄道局管内だけでも貯炭量が二日を割るという状態で、鉄道は危篤状態となった。そのため十一月以降は50パーセント以上も列車本数が減ってしまい、乗車制限は厳しくなり、ただでさえ混雑の激しい列車に私たちはもう乗れないだろうとさえ思われた。

 そのうえ、さらに悪いことには、米が不作で供出が振るわなかった。年末になっても供出はわずかに11パーセントと少なく、東京のストックが十日を割ったといわれた(昭和二十年度の供出割当ては全国で2659万石に対して、十二月末までに294万石しか供出済みとならなかった)。

 そんなひどい状態のなかで、食料不足を解決するには、各人が買い出しに行くよりほかに方法はなかった。汽車でしか行けない多くの人たちのことを考えると、その困難さはとても他人事とは思えなかった。ところが、いくら乗車制限をしても、私の見るかぎりではどの列車も命がけの買い出しの人で超満員であり、どうしてそんなに切符が買えるのか納得がいかなかったものだ。

 また石炭不足の影響は汽車ばかりにとどまらなかった。電気やガスにも大きく影響をおよぼした。冬の渇水も手伝って、電力不足はいっそうひどさを増し、停電は日常的で、電熱器の使用中止が強く叫ばれた。しかし、闇市では電熱器の売れ行きはさかんで、いくらでも売っていたから電力不足にいっそう拍車をかけることになった。

 一方、ガスも十一月中旬には朝晩だけの供給制限になったが、同月下旬には朝だけと制限が強化され、といって薪炭の配給はほとんどなく、冬の寒さに向かって老人と子供を抱える私の家では、食糧の不安と、暗い夜と、燃料の不足という三重苦に家のなかが本当の地獄になった。私はほとんど毎日のように早起きをして、上野の山へ枝切りに行ったり、担当する工事現場から木片を拾い集めて自転車に積んで帰る日が続いた。


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 こうした食糧と燃料不足によって、冬になると大都市周辺では、連日、かなりの餓死者が出るようになった。

 十月ごろには二日に一人の餓死者が出るといわれた上野の地下道に集まった浮浪者が、十一月に入ると日に六人死ぬこともあるといわれ、さすがに都でも放っておけず十二月中旬に2500人の浮浪者を施設に一斉収容したが、すぐ古巣に逃げ帰ってしまい、餓死者の数はますます増える一方だった。


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 上野駅近くに住む私たちには、この身近の悲惨な情景はとても他人事とは思えず、戦争で死ぬことはなくなったけれど、ぼやぼやしていると私たちまで栄養失調で死んでしまうと、生き延びるための買い出しと燃料集めは、何を措いてもしなければならない最重要課題になった。

 役所では買い出しのために職員が仕事を休むのはやむを得ないこととして、ある程度大目に見てくれていたので、その点では気が楽だったが、いくらなんでも買い出しのために毎週二回休むとなると、さすがの私も気が引けた。

 そんな私を見かねて妹の連れあいは、まだ三十歳の元気な人で自転車も上手だったから、私にばかりまかせてもいられないと思ったのか、自分も一緒に買い出しに連れて行ってほしいといってくれた。私の家には戦時中、非常連絡用に役所が貸し出してくれた自転車があった。戦後になっても返せといわれないまま私の家で保管しておいたのだが、その自転車と私の自転車と二台連ねて妹の主人と二人で出かければ、買い出しも週一回ですむ。

 ところが、そう思っていた矢先、十二月になって長兄の息子に貸した自転車が学校で盗まれてしまった。そんなわけで、妹の主人との自転車による買い出しの計画も夢に終わった。盗まれた自転車は昭和十二年に十六円で買った中古車だったが、平和だったころは昼夜兼行で旅に連れて行ってくれたり、役所の出張もほとんどこの自転車を使い、旅費を丸ごと浮かせてくれたりしたものだった。戦争中には食糧補給の有力な武器として、私たちを飢えから救ってくれた数々の思い出と恩義のある自転車だっただけに、その痛手と悲嘆は実に大きかった。

 さて、自転車が一台になると、買い出しはまた私一人の肩に背負わされた。妹の主人は戦後失職してぶらぶらしていたが、私の買い出しの奮闘ぶりを見かねて、私に教えられて栗橋の農家へ野菜の買い出しによく行ってくれたが、電車の混雑が激しくていくらも持って帰れなかった。

 だから、ただ一台の自転車は、飢えと寒さから家族を守るための、実に大切な武器となった。本来、役所へ返さなければならない自転車だったが、返せば私たちが生きていけなかった。返せといわれないのをいいことに、そのまま使わせてもらうよりしかたがなかった。自転車は統制品だったし、鉦や太鼓で探しても手に入れることはむずかしく、タイヤ一本すら手に入らないわれわれには宝以上の値打ちがあった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記、太田


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