三世帯同居、一度の買い出しで麦三斗に芋六貫


 日本がアメリカ兵に占領されても私たちの生活にさほど大きな変化もなく、平穏無事とわかった九月に、母を疎開先の稲城村へ迎えに行った。町の貸車屋からリヤカーを借りて自転車の後ろにつけ、妻には電車で先に行かせて、後押しを手伝ってもらって帰って来た。

 食糧事情がもう少しよくなるまで疎開先にいてもらいたかったが、稲城村でも食糧は窮屈だったし、田舎育ちなのに田舎を嫌っていた母は一日も早く帰りたいといってきかなかったからだ。

 一緒に疎開していた妹夫婦も、行き先がないので私の家へ転がりこんで来た。そして、三男の兄も疎開先から妻子を呼び寄せたから、それまで三人暮らしだった私の家は、いっきょに三世帯十人が生活する大所帯になってしまった。

 終戦になって心に描いていた食糧増配が画餅だとわかると、増えた家族を養うための食糧入手が最大の悩みとなった。三人家族のときには二週間に一度の買い出しでどうにか間に合ったが、十人ともなると、少なくとも週に一度は雨が降っても出かけて行かなければならなかったし、週二回出かけることもしばしばだった。そして私はふたたび心を入れ換えたように自転車を利用しての長距離買い出しに、それまで以上に励まざるを得なかった。

 終戦によって人々の戦争中の緊張がほぐれ、この食糧難を解決するには各人が必死の努力をする以外になかったから、戦後になって買い出しはいっそうさかんになった。人々は先を争って駅に殺到し、ぶら下がるようにして列車に乗った。だから買い出しに行くのも、まず汽車に乗るのが大変だった。


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 十月下旬、戦時中に決められた列車乗車の申告制や指定制が廃止となったが、乗車人員の制限があったため、先着順に朝九時から発売になったものの、ほとんど徹夜しないと切符を手に入れることができなかった。

 それに加えて「供出の不振は買い出しにあり」として、司直の手による狩り込みが徹底したから、列車利用の買い出しは想像に絶する困難を伴った。私は戦時中からあいかわらず自転車による長距離買い出しを続けていたため、こうした狩り込みにも遭わず、列車の地獄絵も見ないですんだ。

 ただそうした事情は十分承知していたから、三男の兄や妹の亭主などに強く汽車の買い出しに行けともいえず、さりとて自転車の買い出しも無理なので、あいかわらず私が一手に引き受けざるを得なかった。

 この買い出しで、一回に麦、栗、蕎麦粉などを三斗(一斗は平均14キロ)、芋類五、六貫匁(約19~23キロ)を、自転車の前後にふりわけて持ち帰ると、十人家族でも一週間から十日ぐらいは配給不足による飢えを凌ぐことができた。

 進駐軍によるたびたびの食糧援助はあったが、遅配が緩和されて欠配がなくなるだけで、配給量が増えるということはなかったから慢性的な空腹に耐えきれず、明日を生き抜くために買い出しは不可欠だった。

 私の買い出しの中心地は戦時中から茨城県の猿島(さしま)郡だった。朝四時ごろに出かけて、帰って来るのは夜十時ごろだったから、他人からはずいぶん大変だと思われた。けれども、戦争が終って殺される心配も、家を焼かれる心配も、戦争に協力する義務感もすっかりなくなったいま、たとえ一時でも荒れ果てた都会を後にして、平和の戻った長閑な田園地帯を好きな旅の唄を口ずさみながら自転車で走る楽しさは昔の自転車旅行と変わらず、私は「買い出しも旅だ」とふたたび思うようになり、人が考えるほどつらいとは少しも思わなかった。

 戦後になっても農村では、戦時中以上に金銭より物が優先する時代が続いていたから、金銭で食料を買うということはきわめて至難だった。すべてが品物と品物の交換の時代で、逆に必要とする品物なら、いくら高くても農家では買ってくれた。しかし一途に食糧に目の眩んでいた私には品物を金銭で売る気など毛頭なかったし、それほど品物は私にとって大切だった。

 買い出しに持って行く品物は、戦時中とほとんど変わらなかった。それは役所から配給になるものや、戦時中、現場から塵として出た建築金物や資材、焼け跡から拾ってきた農具になりそうな金物、一般の配給品を節約してためておいた日用品などで、これらはかなり私の手もとにたくわえてあったから、当分、物交に持って行く品物には困らなかった。

 物交品の王様はなんといっても衣料品だったが、貧乏人の私の家には、農家が喜びそうな衣料品がそれほどたくさんあるわけもなかったから、衣料品はほとんど持って行かなかった。一般の人たちが食糧を得るために洋服や和服をはじめ、さまざまな衣料を持ちだして「竹の子生活」をしているのに、私はほとんどそうしたことはしないですんだ。

 役所からの配給品は終戦後のほうが戦時中よりも量が少し多くなったし、職場会の後などには、さらによぶんに配給してくれることもあった。当時の食糧難と労働攻勢に、私たちの気持ちを少しでも落ち着かせるための役所側の配慮だったと思う。


画像 そうした配給品のなかで、戦後になって新顔がひとつ出てきた。それは広口瓶に二合(360ミリリットル)ほど入っている白い粉の「重曹」だった。

 最初にそれをもらったとき、子供のころカルメ焼きに使ったくらいで他の使い方もわからず、さすがの私も少々持てあましたが、ものは試しと買い出しに持って行ったら、けっこう貴重な物交品になった。

 猿島郡ではお茶や煙草を作っていたから、それに使うのかとも思ったが、ある農家で聞くと、馬に飲ませるのだという。そうとわかると、こんどはつぎの配給から重曹を持てあましている同僚から安く買い取ってためておき、これが二十三年ごろまでの買い出しのさいの有力な物交品となって私たちを飢えから救ってくれた。

 この重曹は薬包紙に杯一杯ぐらいずつにわけて、内服薬のようにして十包ほど持って行くと、一包で麦一升(1.36キロ)ぐらいには交換してくれた。

 初めのころ、つぎの配給までに重曹が足りなくなりそうなことがあった。そんなとき私はメリケン粉を少し混ぜて量を増して持って行ったこともある。重曹は一種の薬だから、買う人に信用してもらわなければならない。いつも農家の縁先で白湯を持って来てもらって、その湯のなかに少し零すとシュッと泡が出る、そういった実験をしてから物交をするのだが、混ぜものをした重曹でも、ちゃんと泡が立ったから、どの家でも大いに信用して交換に応じてくれた。

 いまから思うとずいぶんあくどいことをしたものだとわれながら思うが、そのころの食糧不足を生き抜くためには、いいとか悪いとかいっていられなかったのだ。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


転記、太田


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