終戦―安堵と混乱の日々


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 終戦とともに建物疎開は中止となり、大都市への再転入は抑制された。八月二十日には灯火管制は廃止され、天気予報も復活した。十月になると、集団疎開をしていた学童が東京に帰って来て、焼けた校舎の片隅で青空教室が開かれた。

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 八月三十日、マッカーサー元帥が厚木に到着し、前後して米軍が続々と進駐して来た。初めて見る彼らの顔は明るく、にこにこ笑って親しさが溢れていて、鬼畜米英などとけしかけた日本の軍人のほうが、よほどおっかない顔をしていると思った。

 日本が完全に外国兵に占領されても、私たちの身のまわりには何の変化もなく、いままでとちっとも変わらない日々が続いた。

 男は皆殺しにされ、女は妾にされるということもなかったし、植民地になることも奴隷にされることもなかった。そんなことはあるはずがないとは思いつつ、一抹の不安を抱いていた私もほっとした。

 そうした平穏さは、政府の懸命の努力で軍政が取り止めとなり、アメリカが日本政府を通じての間接支配になったからだといわれた。

 戦争に行ったことのない私には、敗戦国の国民がどのようなひどい仕打ちを受けるかということを具体的にはまったく知らなかった。

 戦地から帰って来た人たちから敗戦国民の惨状をつぶさに聞かされても、それがにわかに信じられず、まるで作り話のように思えてしかたがなかったが、日本が外地で行った非道の行為が、日時の経過とともに新聞やラジオで見聞きできるようになると、さすがの私も目が覚めるほど吃驚した。

 けれども終戦直後の東京は静かだった。日本は実質的にはアメリカの単独占領であり、外国兵といっても英国兵を少し見かけたぐらいで他の国の軍人はほとんど見たことがなかった。街角でときたまアメリカ兵からチョコレートやガムをもらって喜ぶ子供たちを見ると、アメリカ兵に対する私の気持ちは昨日までの憎い敵から急速に友好的なものに変わるのを抑えることができなかったし、役所でもアメリカに占領されてよかったという人が実に多かった。

 私はこのどさくさの時期も二、三ヵ月がすぎれば、食糧もまた昔のとおりになって、好きな旅が自由にできるだろうと、勝手な甘い夢を描いていたが、それから始まった食糧難とインフレは私たちをどん底に突き落とすほどすさまじいもので、自由な旅など本当に絵に描いた餅にすぎなかった。

 私が一番期待していたことは、終戦直前に決められた主食の二合一匁(315グラム)が、一日も早く元に戻ることだったが、依然として統制は続き、当分、解除されそうもなかった。一口に二合一匁といっても、その半分ぐらいが家畜の餌のような代用品(乾燥玉蜀黍、乾燥大豆、大豆粕、高粱、麩、食用粉など)で、米、麦、芋類などは米に換算して一合(150グラム)あるかなしかだった。それに在庫量の関係からか代用品ばかりが先に配給されるといったこともあり、空腹を満たすことなどとてもできなかった。さらに供出の不振、遅配の連続と、食糧事情は悪くなる一方だった。

 私は戦前の平和だったころ、月に一斗(15キロ)の米を食べていた。一日に換算すると約三合(450グラム)だが、そのころはほかにも食べるものがあったから、一日三合の米で十分だった。しかし、いまはほかに間食をする何物もなく、それも三合が一合になったのでは、戦時中から依然として続く空腹に脅かされて、考えることといえば食べもののことばかりで仕事も満足にできなかった。

 私はよく仕事のつごうで、日比谷にあった第一生命相互ビルのGHQ本部の前からお堀端通りを神田のほうへ歩いて行くことがあったが、帝国劇場ならびの赤煉瓦の建物のなかが進駐軍の食堂かなにかになっていて、その窓下を通ると、得もいわれぬ西洋料理のうまそうな匂いが、私のからっぽの胃の腑を針で突き刺すように刺激し、このときばかりはそれまでそれほど感じたことのなかった敗戦の惨めさをしみじみと味わわされたものだった。そして私の買い出しが、さらにいっそうさかんになったのは、実に敗戦後からなのである。

 そんな食糧不安のおり、十一月になると、昭和二十年度の産米は、前五ヵ年平均の二十三パーセントの減収で四六六一万石(一石は150キロ)に落ちこんだといわれ、それを聞いただけで絶望を感じた。この年はとくに天候の不順と、田畑の荒廃、肥料不足、人手不足に加えて九月の枕崎台風による西日本の穀倉地帯の大被害のためだったが、それに加えて八月下旬に始まった復員による人口増など、さらに悪条件が重なった。

 十月二十六日、政府は慌ててGHQに食糧輸入を要請したり、首相が全国の農家に対してラジオを通じて供出を懇願、食用粉を作るための芋蔓や芋の葉、団栗、桑の葉、海草、食べられる雑草、澱粉粕など、およそ食べられるものを乾燥して出せば、乾燥品五〇貫(約187キロ)に対して米一石の供出を免除するとまで声明したが、農家にとってもこれは大変な仕事だったと見えて成績はかんばしくなく、供出は減るばかりだった。このときアメリカの食糧援助がなかったら、日本は破滅してしまったろうと思われる。

 こうした食糧危機に追い討ちをかけるように、私たちを苦しめたものはインフレだった。終戦後、政府は一般の預貯金は無制限に払い出すと言明したが、時の東久邇宮内閣は、戦争は終ったのに依然として戦時経済を続け、軍需会社に対する損失補填や占領軍に対する施設費などに無茶苦茶な政府支出を続けたため、終戦直前の七月、二六一億円だった日銀券が、年末には五五四億円と約二倍に跳ね上がって、悪性インフレのもとになった。


画像 それに戦争が終ると、待ってましたとばかりに都市周辺に闇市が立ち、ないはずのあらゆる品物が出まわり、それらが戸板の上で目の飛び出るほど高い値段で売られるようになった。

 砂糖が貴重だったとはいえ、甘い餡この入った今川焼が一個二円で、私の月給が七十五円だったから、一と月の給料で今川焼を三十七個半しか食べられないと吃驚した記憶をいまだに忘れることができない。

 そのころの闇値は、私の記憶をたどると握り飯一個二円、煙草一本一円、腕時計一個三百円、ぜんざい一杯二円、ズック靴一足八十円、背広上下中古で二百円から三百円、下着上下七十円から百円、芋餡きんつば一個五十銭、米一升(1.5キロ)三十五円から四十円、蜜柑五、六個一山五円などで、どれもこれもとてもわれわれには手が届かず、闇市はただ見るだけの存在でしかなかった。


画像 私の月給は七十五円だったが、われわれ階級の月給はだいたい百円以下だったから、一般大衆には闇の品物は買えるはずはなかったのに、極端な物不足が底なしの購買力を煽り、どこにそんな金があるのだろうと首を傾げたくなるほど、実によく売れた。

 あるところには腐るほど金を持っているやつがいるものだ。戦時中も高級料亭は賑わっていたのだから、いつの時代も変わらないのかもしれない。

 そんなわけで、闇市はいっそうインフレを助長して、庶民だけがインフレと食糧危機に喘ぎ、敗戦のしわ寄せはたえず私たちの上に大きくのしかかって、圧し潰されるような苦しみを味わわされた。

 一方、終戦後も役所からのいろいろな品物の配給は依然として続いていた。このころは誰もが乞食のような粗末な風体だったから、新しい作業服や地下足袋やズック靴などが配給されても、すべて買い出しにまわして食糧確保に励み、私自身すっとれた衣服で役所にも出勤して大威張りだった。

 十月になると政治犯三千名が釈放された。そのなかの一人、共産党の徳田球一の出獄大一声が「天皇制打倒」だった。それまでひどい目に遭わされてきた専制政治の頭目に対する怒りの爆発だったのだろうが、天皇制支持率九〇パーセント以上という日本人の心情をよく理解していなかったと思われるこの過激な一声は、決してその後の共産党にプラスにはならなかったのではないだろうか。

 政治犯が大量に釈放されると、急に世の中が騒がしくなった。民主的な人たちが先頭に立って、戦争責任の追及、専制政治からの解放と民主化を声高に叫んで国民を煽った。そうしたアジ演説を聞いていると、戦争中、軍人がわれわれを戦争に駆り立てたときの裏返しで、あれと同じ印象しか受けず、いつも利用されるのは庶民だと、私は彼らの叫びを醒めた目でただ見ているだけだった。

 十二月になると、労働運動の自由を保障した労働組合法が公布されたが(実は二十一年三月一日)、実際にはそれを待たずに九月ごろから自然発生的に各企業内に労働組合が誕生し、九月以降、おびただしい争議が各所で発生した。それは敗戦の犠牲としわ寄せを労働者に押しつけた戦争中の経営者の圧政に対する鬱積した反感と怒りのこもった激しい反作用だった。

 私の役所でも、九月ごろ、早くも労働組合が産声をあげ、生活危機突破を叫んで、たびたび役所の前の広場で職場会が開かれた。そのあとには決まって全員打ち揃って役所の偉い人のところに押しかけるのだ。先に立った二、三人が首謀者で、他のほとんどは刺身の妻として否応なく連れて行かれ、団体交渉するのだが、実際は罵声を張り上げて悪態をつき、あらゆる憎しみをこめた言葉で偉い人たちを罵倒するのだった。

 そこで何らかの約束を無理やり取りつけるのだが、そうした交渉のあとにはよく五百円、千円と役所から貸付金の名目で金銭を貸してくれたけれども、不思議なことに一度も返してくれといわれたことはなかった。

 当時は、共産党が旭日の勢いを得ていて、日本もすぐさま共産国になるような雰囲気だった。私の役所にもずいぶん同調者がいて、その先輩の一人が私に、
「日本はもうすぐ共産党が天下を取るようになる。君も早いところ共産党員になっておくと、いまにえらい出世ができるぜ」
と、入党をすすめられたが、私にはあまりにも過激な彼らについていくことがどうしてもできなかった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


転記 太田


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