昭和二十年八月十五日


画像 昭和二十年八月十五日、天皇の重大ラジオ放送のある日だ。それが何の放送か正確にはわからなかったが、朝の新聞を見て、終戦を知らせるものであることは推測できたけれども、この日も依然として空襲は続き、本当に戦争が終りになるのかどうかずいぶん心配した。

 この日の正午、天皇の終戦放送が終ると、それ以後、十六日にかけて空襲警報のサイレンは一度も鳴らず、ちょっと不思議な気さえしたが、それで本当に戦争が終ったのだという実感が湧いてきた。これからは空襲に脅かされることも殺されることもないだろうし、なによりもぐっすり眠れることが私にはうれしかった。

 私は十六日の朝早く起きて外へ出てみた。私の住む谷中の町一帯は激しい戦災を受けることもなく、荒れ果ててはいたが、鎮まり返った街の姿がそこにあった。それは幾日も幾日も恐ろしい悪夢にうなされて全身冷や汗をかき通し、目覚めてみると、夢でよかったというような虚脱した静けさに似ていた。

 私はその足で上野の山へ行く。一面の焼け野が原となった下町の廃墟の果てに遠く筑波山が昔のままの姿で望まれたとき、唐の詩人杜甫の、「国敗れて山河あり」の一節が、このときほど実感となって胸に迫って来たことはなかった。

 とぼとぼと家に帰る道すがら、日本の国始まって以来の敗戦なのにもかかわらず、ショックというものが私にはそれほど感じられなかったのが不思議だった。敗戦とは国家の恥辱であり悲劇でもあるはずだ。これから先どんなことが起こるのだろう。そういう不安はたしかにあったが、私の頭ではそこまではとても考えられず、単純に終戦の日とは死からの解放であり、初めて安心した気持ちで眠ることのできる喜びが大きく心を占めていた。

 役所に出向く。空には米軍の小型機がさかんに監視飛行を続けて飛び交っていたが、もう爆弾も機銃掃射もかけては来なかった。役所へ出てもこれから先どうなるのか、その方向さえわからないままに仕事も与えられず、空虚な一日をすごした。

 このころのことだったと思うが、時の政府は今回の戦争は国民のすべてが悪かったのだから一億総懺悔をしようといった。私はこれを聞いて、どうして私たちまでが「すみませんでした」と、頭を下げて謝らなければいけないのかと思った。無力な私たちは否応なしに戦争に引き摺りこまれたわけで、謝らなければならないのは、軍閥や資本家や官僚であったはずだ。

 役所の友人のなかにも、私たちにまで責任を押しつけて、彼らの戦争責任を少しでも逃れようとしている策謀だと怒っている人も少なくなかった。騙され、ひどい目に遭わされたと思いこそすれ、申し訳なかったなどと思ったことはなかった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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