栗橋での敗戦の噂。八月十五日の放送


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 戦争がここまで来ると、いくら私でももう丸一日かかる買い出しには行けなくなった。食糧はあと数日を残すのみとなり、その心細さに八月中旬のある日、半日で言って来られる栗橋へ、妻と二人でカボチャの買い出しに出かけた。

 その日、カボチャをわけてもらって栗橋駅へ戻ったが、どうしたことかいっこうに帰りの汽車が来ない。しかたなく栗橋町の旅館で不安な一夜を明かした。

 東京がまた空襲でも受けているんじゃないかと南方の空をうかがってみたが、それらしいようすもない。状況がまったくわからないだけにいっそう不安だった。

 私たちの泊まった旅館は近くの軍需工場かなにかの寮にもなっていて、男女の若い工員が大勢泊まっていた。私たちはその工員たちとざこ寝で一夜を明かしたのだが、男の工員たちはもうすぐ日本が降伏することを知っていて、「敵が本土に上陸して来たら、男は皆殺しにされ、女はみな妾にされる」といって、一晩中泣き悲しんで誰一人として寝ようとする者はいなかった。

 押し入れをベッドがわりにしている女子工員たちも眠れないままに睡眠剤の注射などを打つ者もあり、打ち方が悪かったのか興奮状態となって、一晩中、父母の名を呼び続け、その喧騒で私たちは一睡もできなかった。私の横にいた工員の一人は真剣な顔つきをして、私に、
「奥さんを東京に連れて帰らないほうがいい。どこか人目につかない田舎へでも隠してしまったほうが安全だ」
と、しきりに勧めるのだった。

 これまでの買い出しの途中で、風呂敷包みを背負い、子供の手を引いて東京から逃げて行く女の人がだんだん増えていくのをよく目撃したが、戦争に行った経験のない私は、戦場での残酷さをほとんど知らなかったし、少し甘く考えてもいた。交戦状態で敵が上陸して来るなら別だろうが、日本が降伏したとして無抵抗になったとき、進駐して来る敵兵がそうした無法をはたらくとは思ってもいなかったから、彼らの騒ぎを案外冷静な気持ちで観ていた。

 翌日、汽車が走るようになって、朝一番で東京へ帰ったが、私の家に何の異常もなかった。そしてこの買い出しから帰ってほどなく終戦を迎えた。

 八月十五日、天皇の重大放送があるとはかねて聞いていたが、新聞を見てもそれが終戦を知らせるものであるということは何か信じられなかった。事実、この日の朝も敵機は関東地区に侵入して攻撃を続けたからである。しかし、正午の天皇の終戦放送を聞いてやっと納得し、以後警報は鳴らず、東京の空が静かになって、ようやく安堵の胸を撫で下ろした。

 放送の後で役所の課長は私たちを身近に集めて、これからの日本は外国の植民地となり、われわれは奴隷として扱き使われるだろうが、どんなことがあっても生き抜くのだと、ふだん豪放磊落なこの人が目にいっぱい涙を浮かべて悲愴な面持ちで語った。

 このときの課長は私たちと同じ作業服を着ていたし、荒れ果てた部屋のなかで空き箱に腰を下ろして話す態度からは、それまでのような身分の隔たりはまったく感じられなかった。終戦後、この人は建築局長となり、帝都の復興に尽力、後に国会議員に出世した。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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