疎開の混乱ぶりに国滅亡の姿を見る


 世の中がこんな状態になると、本当に毎日が死との対面だった。明日という日がどうなるのか、まったく期待は持てなかった。空襲のあるたびに役所の人が、一人二人と隠れん坊でもするように消えて行った。

 私に自転車を貸し出してくれた二人の用度係の人も、ともに三月以来、どこへ行ったのか行方がわからなかった。なかには恐怖のあまり役所に無断で田舎へ逃げて行き、そのままになってしまった人もいたし、下町の空襲で頭に焼夷弾が当たって気が変になってしまった先輩もいた。

 昭和十九年、六百六十万人もいた賑やかな東京の街は疎開や戦災ですっかり荒れ果て、七十パーセント減の二百二十万人にも激減してしまったという。毎日鳴り続ける警報が解除になると、やれやれ、こんども無事だったかと、ほっとする毎日の連続だった。

 役所で三日も顔を見ない友人にひょっこり会ったりすると、
「君もまだ無事だったか!」
 と肩を叩いて喜びあった。

 この非常時に一人でも友人の生きているのを確認することは自分に生きる力を与えられることで、その喜びは肉親と同質の温かさに溢れていた。平和なときには、おたがいに自分の出世ばかりを考えて人の足を引っ張るような人が、このときには一丸となってこの恐ろしい世の中で励ましあって耐えていこうという姿に変わっていた。

 こうした全員一致とも見える団結も、戦局がここまで悪くては誰も日本が勝てるとは思えず、うつろな心は祖国防衛にまではたらかず、ひたすら生き延びる方向に向かっていった。

 平和だった昭和の初め、激しい不況と貧困のどん底にあって、私は自分の将来に絶望を感じ、死を礼賛したことが幾度もあったが、毎日が事実上、具体的に死と向かいあう状態におかれると、必死になって生きようとしている。若いときに憧れた死という考えが、現実に裏打ちされない、いかに他愛のないものかを思い知らされた。

 六月も終ろうとしていたころ、退役将官の息子が竹槍訓練のあいまに、
「この戦争はもうすぐ終る。もう少しの辛抱だから頑張ろう……」
 と耳打ちしてくれた。

 政府も軍もそんな気配はおくびにも出さず一億玉砕を呼号していたときだったが、この人のいうことはそれまで一度も間違ってはいなかったから、半信半疑ながら、ほっとしたものだった。ただもうすぐというのがいつごろなのか、あと半年も続くと、食糧不足を考えただけでも、とても生きてはいられないような気がした。

 そして、戦争が終らないかぎり、一日一日と私たちには確実に死が迫って来るように思えるのだった。飢え死にか玉砕か、絶望の二筋道で、どっちにしても結果は一つの避けて通れない死への道であった。

 そのことを確実に思わせたのは、七月十一日の主食の一割減の決定だった(それまでの二合三勺が二合一勺の315グラムになる)。いよいよ本土も食糧が底をつき、こんごさらに漸減していく第一歩だと悟った。政府は米の端境期だからと言い訳したが、誰もそんなことは信用しなかったし、絶対に増えることはないということは明白だった。

 配給は米が極度に不足し、人間の食べものとも思えないような高粱、乾燥した玉蜀黍、乾燥大豆、大豆粕、食用粉、麩といったものが半分抱き合わせで、それも遅配がちだったから、量を減らされた配給だけではとても生きていけなかった。この食糧不安に政府は雑草を乾燥して食用粉を作ると、一貫匁(3.75キロ)で米二升五合に匹敵するといって奨励したが、都会育ちのわれわれにはそんなことをいわれても作り方さえわからず、まったく無理な話だった。


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 七月の初め、役所の同僚が東京ももう危ないからといって、南多摩郡の稲城村に疎開先を見つけてきた。誘われて私も行くことになり、年とった母と寝具や衣類などを疎開させることにした。妻が母を手押し車に乗せ、私は借りものの荷車に荷物を積んで朝早く出発し、上野から新宿に出て甲州街道を調布まで行き、左折して多摩川を渡って稲城村に着いたのだが、私だけはその日の夜遅く帰って来た。

 途中、警報に脅かされ幾度も退避したが、いまから考えるとよくそんな無理なことができたものだと思う。このとき川崎の大空襲で焼け出され、着のみ着のままで逃げてきた妹夫婦に稲城村で母との共同生活をしてもらうことになった。

 甲州街道は都落ちして行く人や荷物で大変だった。その混乱は国が滅亡する直前を思わせた。甲州街道は新宿駅南口前を通過するが、道に憲兵が数人立ち塞がって、それらの人や荷物を懸命に追い返そうとしていた。

「国家と荷物とどっちが大切だ! 国が滅びたらそんながらくたを持っていて何になる。みんな叩き壊してやる!」
 と威嚇した。けれども後から後からと洪水のように押し寄せる人や荷物を押え切れずに、すべての人がここを押し通った。

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 私はこの疎開行きで稲城村へ来たが、東京ではすでにまったく考えられない大自然の静かなたたずまいが、まだ完全な形で残っており、そんな環境におかれると、これまですっかり忘れていた旅をふと思い出したりした。

 青い空と白い雲、燃えるような緑と草いきれ、素朴な野の仏と湧き水、昔の旅のお膳立てのすっかり揃ったその情景にどっぷり浸ったとき、旅のできなくなったいま、昔の旅が懐かしく、明日をも知れないわが身を思うと、知らず知らず涙が溢れ落ちるのを禁じ得なかった。

 八月になると戦局は最終段階となり、敵はいよいよ本土上陸を行うだろうといわれ、鹿島灘がその上陸地点としての公算大と軍は発表し、あくまで抗戦を呼号、一億玉砕が叫ばれた。そして銃一つないわれわれは竹槍一本を持たされて激しい軍事訓練に励んだ。

 そして六日に広島、九日に長崎と新型爆弾が落とされた。それが原子爆弾とは誰も知らず、軍は新型爆弾と表現し、「相当の被害、詳細は目下調査中」でかたづけられ、一瞬のうちに何十万もの人が死んだことなどまったく知らされなかった。

 私たちは何が何だかまったくわからなかったが、軍は横穴の防空壕が一番よいといい、家のなかの防空壕は駄目、屋外に深く穴を掘って石かコンクリートで固め、上に厚く土をかぶせるよう指示し、その頑丈さを聞いただけで吃驚するほどだった。

 そして避難するときは白い布の着物と白い手袋と油薬の用意を、少数機のときは、とくに要心などと、これまでにないようなことを具体的にいいだし、その爆弾がいかに容易ならざるものかを大いに想像させられて怯えた。このころアメリカの大統領トルーマンは日本が降伏しないかぎり、つぎつぎとこの新型爆弾を投下すると言明して日本を恫喝したという。

 私の住む街には山の崖を利用して横穴濠ができていたが、このころになると老人や女子供でいっぱいになり、私たちのように元気な者は入りにくかった。長崎に原爆の落とされた数日後、私は三男の兄と二人で家の前の道路に穴を掘り、防空壕を造りかえたが、材料もなく、空っ腹を抱えての作業では、二日や三日で満足なものはとてもできなかった。容易なことではできないとなると、なかばやけ糞で、もうどうなってもいいやと中途で放り出してしまった。

 このつぎは東京に新型爆弾が落とされるだろう。その後で鹿島灘に敵が上陸して来るのだろう。そしてもしそのときまで生き延びられたとしても、敵が上陸すれば食糧の配給も止まってしまうだろうし、買い出しにも行けなくなるだろう。たとえいくばくもない時間を生き延びられるとしても、間もなく皆殺しにされてしまうだろう。

 さいわい母は近郊に疎開させたから、あるいは助かるかもしれない。けれど、われわれ若い者が死んでしまったら、年老いた母一人が残され、いったい、これから先どうなるのだろう。不安はつぎからつぎに私を襲い、新型爆弾のもたらした恐怖は本当に大きなものがあった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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