宿直と半焼けの地下足袋の底ゴム


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 三月の大空襲の後、校舎を焼夷弾から守るために中学校以上の学校では生徒が泊まり込みをするようになった。役所でも庁舎を防衛するために数日おきに宿直をするようになったが、私にとって、この宿直はなによりも恐ろしかった。私の留守中、家にもし焼夷弾でも落とされたら、老齢で足腰の不自由になった母を安全な場所へ連れ出すことは、ひ弱な兄にはとてもむずかしいと思うからだった。母にだけは無残な死に方をしてもらいたくはなかった。

 役所は日比谷公園脇の市政会館にあった。この建物は鉄筋コンクリートの不燃構造だったが、宿直になった真夜中、屋上に登って行き、幾筋ものサーチライトの走る夜空を仰いでは、
「家だけは空襲を受けませんように」
と、自分の家の方向に手を合わせて、身勝手な祈りを懸命に捧げた。宿直は終戦まで続いたが、私の祈りが天に通じたのか、空襲だけは受けずにすんだ。

 五月の大空襲で都心部がやられたときは宿直でなかったが、朝になって役所へ自転車で飛んで行った。庁舎は外見上異常はなかったが、なかでは上の倉庫が飛び火かなにかで焼けたといって騒いでいた。庁舎の前の広い道路の向かい側には、東京新聞社の古い木造の大きな社屋(元都-みやこ-新聞社時代のもの)があって、そこが焼夷弾攻撃を受けて焼け、それによる飛び火らしいという話だったが、当直者は朝まで気がつかなかったという。

 この倉庫のなかには非常用の地下足袋やズック靴が、何万足と山のように積み上げられて保管してあった。用度係が飛んで来て調べてみたが、宝の山は全部灰になっていた。私もその灰の山を見て、これだけの品物があったら、米でも麦でもいくらでも手に入ったのにと、ただもったいないことをしたと、それだけしか考えなかった。

 またこの倉庫には古い掛け時計が一つあって、それが焼けて床に落ちていた。二日ほどまえ、私と一緒に宿直をした先輩がそれを発見して、「ちきしょう、こんなところにあったのか!」と地団駄ふんで悔しがった。この人は宿直のとき、さかんに廊下を行ったり来たり歩きまわって、いっこう休もうとはしなかったので、ずいぶん熱心な人だなと感心していたのだが、実はあのときカチカチという音を聞いて、どこかに時計があるようだと探しまわっていたのだった。

 この人は三月の空襲で焼け出され、焼けビルで近所の人と不自由な共同生活を送っていたのだが、誰も時計を持っていなくてその不便に堪えかねていたのだ。そしてもし時計が見つかったら貸してもらおうとさんざん探しまわったが、どうにも探し出せなかったのだった。

 それから二日ほどして人夫と一緒に倉庫のなかの灰の山の撤去作業を手伝ったが、灰を取り除いていくと、下のほうには底ゴムだけはまだ完全な形で残っている地下足袋がたくさんあった。私はそれを見て、農家の人は何でも欲しがっていたから、ものもいいようで、この底ゴムもきっと麦一升(1.36キロ)ぐらいにはなるだろうと見当をつけ、私はその半焼けの地下足袋をたくさんもらうことにした。

 そして、妻と二人で灯火管制の合間を見ては、夜鍋で布の部分とゴムの部分の切り離し作業を行った。一晩に二足ほどしかできなかったが、大切に保管してつぎの買い出しにほかの品物と一緒に持って行って、
「これからはもうゴムは手に入らなくなります。畑仕事をするにも、草鞋は裸足でする以外に方法はなくなるでしょう。このゴム底に古い足袋を縫いつければ立派な地下足袋ができますよ」

 といって交渉すると、日本の戦況から見て私の言い分には、かなりの信憑性があったようで、たいていの農家で麦一升には取り換えられた。この底ゴムはその後、戦後のあのもっと激しい買い出し時代にも大いに役に立って、私たちを飢餓から救う一助になった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


転記、太田


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