防空群長、横穴濠へ待避と灯火管制


 昭和十九年の四月から私は隣組の防空群長になっていた。初めのうちは大したこともなかったが、その年の十一月から本格的な空襲が始まると忙しくなり、二十年に入ってからは夜もおちおち眠れないほどになった。

 それにこの冬の寒さは二十年来といわれる厳しさで、昼間こそそれほどでもなかったが、夜は実につらかった。ほとんど毎日のように警報は鳴り、私が役所に出勤しているときは妻が代行してくれたが、家にいるときは警報のたびごとに重装備で外へ飛び出し、メガホンを片手に「空襲警報発令!」と叫んでまわり、各戸の責任者に外へ出てもらって、老人、子供を近くの横穴壕に待避させ、敵機が脱去するまで空を睨んで警戒してもらうのだ。

 ふだんのときでも夜は灯火の漏れている家はないかと町のなかを調べて駆けずりまわった。 防火用設備を点検して防火用水の氷を叩き割り、不足になった水の補給をしたりするといった実に重労働の役目なのだ。

 私の家のある谷中清水町という街は上野の山の山懐にあり、関東大震災のときでさえ火事ひとつ出なかったところで、上空からは見えにくいのか、それまでに爆弾は一つも落とされていなかった。そのためか三月の大空襲のときでも人々は警報が鳴ってもあまり慌てず、まるで演習でもしているようにのんびりしていて、私をやきもきさせた。

 それに警報は遅れて発令されることがよくあり、そのため敵機が去ってから避難したり、警報が鳴っても敵機が見えないこともしばしばあった。そうしたことが続くと私がいくら待避を叫んでまわっても、町の人はまたかという顔をし、全面的に協力してくれる人ばかりとはかぎらなかった。私の母でさえ「もうここで死んでもいいよ」と、決して避難しようとしなかったくらいで、こういう人が実に多かったのである。

 私自身、初めのころ、空襲の恐ろしさを知らなかったが、三月十日の大空襲を経験してそのすさまじさに呆然自失の体で、それまで一生懸命やってきた防火訓練など糞の役にも立たないことを知った。無駄とわかれば防火設備の点検などもおろそかになり、ひたすら老人と子供を避難させることと、夜間の灯火管制に力を注ぐようになった。

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ここにいたっても私の母は避難しようとせず、母がやっとその気になったのは、五月の大空襲のあとだった。

灯火管制を守らせることも、なかなか大変だった。町の人も三月十日以来、ずいぶん協力してくれたが、それでもほんのちょっとの不注意からか、灯の漏れている家がよくあった。

わずかの灯でも目標にされたら大変だと、私も気が立っているから、
「――さん、明かりが漏れていますよ!」
と、つい大声で怒鳴ってしまう。

するとよく喧嘩を吹っかけられた。一度は二階から石をぶつけられたこともあったが、暗いのでどこからだかわからず、ただ鉄兜をかぶっていたから怪我はなかったのはせめてもだった。

また町内の兵隊帰りの男に、
「俺は××で敵を○○殺して来た男だ。ぐずぐずいうと貴様も叩っ殺すぞ!」
と嚇かされたり、近所のおかみさんに、「明かりなど漏れてはいない」と泣きながら食ってかかられたり、私自身、なんでそれほど憎まれるのかわからないことも多かった。

 東京がこんなふうに戦場になっていっただけでなく、役所に出るにも戦闘帽に作業服、足には地下足袋にゲートルを巻き、肩は防空頭巾に鉄兜と防毒マスクを引っかけるという、兵隊さんそこのけの重装備で出勤するようになったし、帰って夜寝るときも、いつでも飛び起きられるように、そのままの姿でうたた寝したが、気持ちが緊張しているせいか疲れもそれほど感じなかった。

 こんなさなかで私が一番億劫だったのは風呂に入ることだった。いまとちがって一般家庭に浴室などなかったし、燃料不足でほとんどの人が銭湯に殺到したから、その混雑ぶりは大変なものだった。冬のことで、いくら急いでも出るまでに三十分はかかったし、警報がいつ出るかもしれず、盗難にも気を配らなければならず、芋を洗うような浴槽にはなかなか入れず、湯冷めで風邪を引くこともあった。

 しまいには垢で死ぬことはないと、一ヵ月以上風呂に入らないこともざらになった。六月の声を聞くと、買い出しの帰りによく利根川に飛びこんで行水をしたものである。

 空襲がしだいにひどくなると食糧の質の低下や遅配がめだつようになり、空腹には閉口した。二十年の一月までは二週間に一回の割合で、なんとか買い出しに行けたが、だんだん空襲が激しくなると、防空群長としての任務もあって買い出しも思うにまかせず、無理しても月に一回がやっとだった。そうなると買い出しに頼って来た私にとって、空腹はさらに耐えがたいものとなった。徹夜に近い警戒や、町の人との喧嘩などは気にもとめなかったが、群長としての任務をまっとうするためにも空腹ではどうにもならず、買い出しだけは止めるわけにはいかなかったので何事にも優先させた。

 三月の大空襲のまえ、役所では大空襲を見越したのか、非常連絡用として運転の上手な私に新品の自転車を一台貸与してくれた。これは自宅に保管して自由に使えたから、自転車が二台になり、強い味方を得てこんな喜びを感じたことはなかった。買い出し回数が激減したため、二月ごろから二台の自転車を利用して役所の休みのとき、四男の兄と二人で空襲の合間をみては、一度で二回分の買い出しをするようになった。けれどもこうした苦肉の策も、三月の大空襲に遭うと老人を抱えた私の家では大の男が二人とも家を空けるわけにもいかず、それ以後は兄と交替で行くようになった。

 ところが、五月の大空襲がすぎると、四男の兄の務めていた町工場も福島県の海岸町小名浜に疎開することになり、六月の初め、兄夫婦も行ってしまった。家族が急に少なくなって心細かったが、近くに別居していた三男の兄が、家族を疎開させて一人だけ私の家へ同居することになってほっとした。といってもこの兄はひ弱で自転車での買い出しなどはとてもできず、買い出しはまた私一人の仕事になった。

 三月の大空襲を見て、もう日本は勝てないと悟った。そうした敗戦意識は帝都防衛の決意を鈍らせた。この先、負けたらどうなるのだろう。なにはともあれ、一日でも生き延びることだ、そのためにはまずなにより食糧確保が先決だと考えた。そして三月いっぱいで任期の切れる防空群長を辞めさせてもらい、もっと自由に買い出しに行ける身になりたかった。

 しかし、後任はなかなか決まらず、結局、五月すぎまでやらされることになった。後任者といっても足の不自由な人を二人一組にして、順番だからと無理矢理引き受けさせたのだが、その後も私はときどき協力せざるを得なかった。

 五月の空襲の後、東京が焼け野原になると、町の防空組織も混乱し、組織的な防空活動というよりも、いざというときには各人が自分自身逃げることを優先させるというようになっていった。ところが、びくびくしていた夜間の大空襲は六月も七月もなく、それによって群長としての仕事もあまりなくなり、しだいにいい加減になっていった。

 私は群長を辞めて肩の荷が軽くなり、月に二回は買い出しに行けると思っていたが、こんどは昼間、敵の小型機の来襲が頻繁となって無差別の機銃掃射を受けるようになると、買い出しも月一回が精一杯だった。だから心底、食糧不足が身に堪えた。そして七月になると、それまで大切に保管しておいた備蓄食料に少しずつ手をつけるようになっていった。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記、太田

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