空襲につぐ空襲で恐怖の八ヵ月


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 第二回目の東京大空襲は四月十三日夜半から十四日明け方にかけ、B29百七十機をもって行われた。このときは東京の山ノ手方面が攻撃され、焼夷弾による市街の無差別攻撃だった。一日おいた十五日にもB29二百機が、京浜地区と帝都城南地区を大爆撃して去って行った。

 名古屋地区はときどき空襲を受けたが、五月十四日の大空襲はひどかったらしい。数百機のB29(四百機ともいわれる)が来襲、市街は火の海となり、名古屋は焼け、雄の金の鯱(しゃちほこ)も焼失、このとき敵機は六ポンド焼夷弾を投下したが、これは一種の親子爆弾で、親箱が空中で分解すると、子弾三六発が空中に飛散するので、遠くからは火の雨が降ったように見えたという。

 このときの空襲は白昼堂々と行われ、マリアナ基地にはB29六百機待機、今後に注意という軍の発表を聞いて二度吃驚した思い出がある。

 三回目の東京大空襲は五月二十四日明け方と二十五日夜半に、B29二五十機ずつで行われた。このときは主として都心が攻撃され、三月からの三度の空襲で東京はほぼ灰になった。このたび重なる攻撃の合間にも、敵は三日とあけず少数機をもって、焼け残った部分の調査でもしていたのか上空をうろついて降伏ビラを撒き、思い出したように爆弾を落として私たちを右往左往させた。

 この三回目の空襲がすむと都心に燃え草なしと見たのか、区内にはあまり大きな空襲はなくなった。しかし、東京をはじめとして周辺の空がこれで静かになったわけではない。敵は日本瀕死と見るや近海にまで堂々と機動艦隊を近づけ、小型機を飛ばして無差別の機銃掃射をするようになり、その爆音を聞いただけで気が変になりそうだった。

 警報はいつ鳴るかわからず、警報が鳴っても機影を見なかったり、警報が鳴らないのに突然敵機があらわれたりして、一日として安閑としていられる日はなかった。

 敵は東京ばかりではない。日本全国の中小都市にも魔の手を広げ、一つ一つ焼き払っていった。首都圏で被害の大きかった都市の主なものは、甲府、前橋、宇都宮、熊谷、太田、日立、水戸、川崎、横浜、八王子、沼津、静岡、銚子、千葉などで、被害を受けた都市は関東全域におよんだ。

 六月以降になると敵の日本各地への空襲は、頻度を増し、規模も大きく、何百機と翼を連ねて侵攻して来るようになった。ドイツはすでにかたがついていたうえ、硫黄島や沖縄を手に入れて日本来襲に便利になり、日本一国に目標を絞れたせいだろう。

 首都圏の川崎など前後二十回におよぶ大空襲で全市が焼き払われた。敵の執拗な攻撃は終戦直前まで続き、関東をはじめ東海、中部、近畿、中国、四国、九州そして北陸におよび、大小の都市や重要施設が被害を受けた。

 東京にも終戦間際の八月八日午後、B29百機が来襲、千住、荻窪、田無(たなし)付近の工場地帯や市街地の大空襲を行い、追い打ちをかけて八月十日昼にもB29百機と小型艦載機二百三十機をもって帝都周辺の飛行場、工場地帯、市街地を爆撃したが、都心には大した被害もなく、これらはいずれもスパイの通報によるものと当時噂された。

 そして終戦の日の八月十五日にも朝、敵艦上機二百五十機が房総半島より関東に侵入、飛行場や市街地を攻撃するという執拗さだった。

 東北地方ではあまり空襲の話は聞かなかったが、私の知り得た範囲では七月に入って十四日、小型機(機数不明)による青森空襲があり、このとき津軽海峡の連絡船九隻が攻撃されて沈没し、青函連絡船が壊滅の被害を受けて三百八十八人が死亡した(六月二十日、関釜(かんぷ)、博釜(はくふ)の両連絡航路、戦局悪化で運行不能となり、八月十四日、稚泊(ちはく)航路も運航停止、日本の連絡航路は全滅となる)。

 八月上旬、太平洋岸に接近した敵機動艦隊より艦上機千百機以上が東北各地の飛行場や軍事施設、軍需工場などを攻撃した。おそらく私たちが営々として造った八戸の飛行場も壊滅したろうと脳裏をかすめたが、もう涙も出なかった。このとき敵艦隊の一部は移動して、鉱業都市釜石に情け容赦ない艦砲射撃を加え、廃墟にいたる被害を与えた。そして少数機で飛来しては日本海側の港湾に無数の機雷を投下して海上封鎖を行った。

 八月上旬、広島と長崎に原爆投下、アメリカはこれによって日本に最後のとどめを刺したはずなのに、その後も執拗な攻撃を続けた。日本がなかなか降伏しなかったせいもあるが、日本人を皆殺しにするまで止めないんじゃないかと思えるほどだった。

 日本の軍人は負けたら皆殺しにされるとよくいっていたが、そんな言葉を信じたくない私でも、このしつこい攻撃を見ていると信じないわけにはいかなかった。すでに日本は満足な反撃力もなく、俎の鯉同様だったのである。

 戦後になって資料を調べると、終戦までに対日空襲に出動したB29は延べ一万七千五百機(私の実感ではもう少し多かったような気がする)、東京への空襲は昭和十七年四月十八日以来、百二十二回におよんだ。

 日本に投下された爆弾は実に十六万余トン(五百ポンド大型爆弾に換算すると約六五万個となる)に達し、当時市制を敷いていた全国二百六都市のうち、九四都市が焼き払われ、全国の死傷者合計六十六万五千人、家屋二百三十万戸、罹災者一千万人を越え、被害の第一位は東京で、広島や長崎を抜いたという。これらは私の知り得たものだが、実際はもっともっと悲惨なものだったと思われる。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田

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