昭和二十年


 昭和二十年と年は改まったが、この年は日本国中が空襲で始まり、空襲で終る恐ろしい八ヵ月だった。それに日本は敵に取り囲まれ、ますます深刻化する食糧不安と熾烈をきわめる敵の攻撃に、殺されるか飢え死にかとただおろおろするばかりであった。

画像 外にあっては一月上旬、アメリカはフィリピンのルソン島に上陸、二月上旬、マニラを占領、そして二月中旬には硫黄島に上陸、一ヵ月たらずの激戦の後、ここも玉砕。

 そして四月初め、沖縄に敵上陸、救援に向かった戦艦「大和」をはじめ、生還を期さぬ片道燃料だけの特攻出撃だったが、いち速く敵のレーダーに察知され、沖縄に着くどころか大隅半島南方海上で米機1000機の攻撃を受けてほとんど全滅、日本艦隊はこれでまったく消滅してしまった(戦艦{大和」は十二年十二月に完成した満載時7万2809トン、46サンチ主砲九門を持つ世界一の超弩級戦艦だった)。

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 五月上旬、ドイツは降伏して戦線から離脱、満身創痍の日本は世界を相手に戦うことになり、六月下旬、ついに沖縄の地上部隊全滅、日本本土の一部が敵の手に落ち、いよいよ本土決戦に追い詰められた。

 戦後になってわかったことだが、硫黄島のような米粒ほどの小さな島を戦艦、空母三十数隻からなる大物量戦隊が取り囲み、糧道も絶たれたうえに海空からの猛攻撃を受けたら、劣勢に立たされた日本軍が負けるのは当たり前だったろう。

 沖縄戦で押し寄せた敵艦隊は軍艦318隻、補助艦艇1139隻、これに雲霞のごとき上陸用舟艇をしたがえた敵兵力は54万8000名といわれた。

 つぎは九州だったが、大本営はあいかわらず本土決戦、一億玉砕を叫んでいた。あいつぐ玉砕の報は自分の手足をもぎとられていくような恐ろしさと哀しさがあった。平常心を失った軍は本土決戦を叫び続け、毎日のように竹槍訓練や防空壕掘りが行なわれて街のなかも騒然としてきた。

 一人でも敵が上陸して来たら竹槍で突き殺せというが、昔のやくざの喧嘩じゃあるまいし、竹槍一本で何ができよう。内にあっては去年十一月の空襲以来、今年になって、それはますます激しさを増し、四面楚歌のなかで逃げ場を失ったわれわれは無抵抗のまま敵に追い回された。

 こんな追い詰められた時期にも、天われに味方せず、一月十三日にまたも東海地方に激震あり、かなりの被害を出したらしいが、このときも新聞の片隅に小さく、「東海地方に地震、被害最小限度に防止」と出ただけだった。

 三月初めになって、おそまきながら妊婦と幼児の集団疎開が開始され、まず甲府方面へ約百人の移住が決まった。同じく三月上旬、国民勤労動員が公布され、根こそぎ動員体制となり、職場を辞めるには知事の許可が必要となって、勝手に職業をかえることも辞めることもできなくなった。

 さらに敵は最大の目的地東京に対して、三月九日から十日を皮切りに五月までに三回の大空襲を行い、これを灰燼に帰しめた。三月、空襲以後、学校の授業は中止となり、このころから敵の日本への空襲はさかんとなった。

 沖縄に敵が上陸すると、小磯内閣は鈴木貫太郎内閣にかわり、首相就任挨拶で、「この戦必ず勝つ」と豪語した。四月初め、深刻化する決戦は公共料金の大幅値上げとなり、生活はいっそう苦しさを増す。汽車賃も三割値上げしたのに疎開優先となって一般旅客は大削減となり、汽車にももう乗れなくなった。

 市街地では帝都防衛の塹壕構築のためタンクが出動、あっという間に建物を取り壊した。これは有無をいわさぬ強制措置で、軍は本気になって本土決戦をする腹だったようだ。六月になると空襲はさらに激化し、何百機と大規模な編成となり、日本全国の都市が連日のように大空襲を受けた。

 ここまできても、あくまで抗戦を呼号する軍は、六月、最高戦争指導会議を開き、一億玉砕覚悟の本土決戦を決め、国民義勇兵役法を制定し、男子十五歳から六十歳、女子十七歳から四十歳の人は、すべてこの適用を受け、いざというときは竹槍を持って敵と戦うことに決められた。

 沖縄が落ちて以来、いつ敵が九州に攻め上がって来るかとずいぶん心配したが、なかなかやって来なかった。後で知ったことだが、このとき敵は原子爆弾を造っていて、七月中旬、ニューメキシコで実験に成功、消耗の多い本土上陸を避け、原爆で日本を叩く腹を決めていたようだった。

 六月、いよいよ食糧の備蓄が底をついたのか、主食の代替食糧はさらに増え、芋やカボチャの蔓を食えと当局は通達した。そして七月中旬、主食は一割減となり、一日二合一勺(315グラム)となり、煙草も一日三本に減らされた。

 政府も当局がここまで来ると戦争終結の努力を内々でしていたらしく、七月中旬、平和斡旋のためソ連に近衛文麿派遣を申し入れたが、ソ連は二月のヤルタ会談で連合国側から日本への参戦を要求され、日本の北方領土と引き換えに参戦の腹を決めていたときでもあり、死にかかった日本を助けてくれるはずもなく拒否された。

 七月下旬、ポツダム宣言が発表され、このときこそ終戦のチャンスだったが、軍と政府はこれを謀略といい、鈴木首相は、「死中に活あるのみ、断乎戦い抜く」と言明して撥ねつけた。

 アメリカは八月になって広島と長崎に原爆を投下。日本瀕死と見るや、日ソ中立条約がまだ八ヵ月も残っていたソ連が参戦し、さしもの日本軍部は手も足も出ず、八月十日になって天皇は聖断を下し、八月十五日、ついに戦いを終結させ、第二次世界大戦はここに終了した。昭和二十年に入って八ヶ月間、それは地獄のような毎日だったが、空襲の恐ろしさはとても口でいいあらわせるものではなかった。

 私は若いころから記録魔的性格が強く、当時の新聞の保存はもちろん、さまざまな記録をつけていた。しかし、三月のもの凄い東京大空襲を経験してからというもの、それらの記録や資料を守るため庭に造った防空壕に保管しておいたのだが、藁半紙や仙花紙だったため、五月に調べてみると、湿気と浸水でほとんどが団子状になってしまっていた。それにいつ殺されるかわからないという危機感が記録をとることの無意味さを感じさせ、そのときを境に止めてしまった。だが、あのころの必死な思い出は忘れがたく、もう何十年も昔のことで詳細は定かではないが、その記憶をたどってみよう。

 新しい年になって、空襲はしだいに激しさを増し、暮も正月もなく警報に脅かされた。何十機と編隊を組んで東京へ侵入して来る敵機を何度も見た。そうした大編隊の来ないときには、少数機が上空を散歩でもしているように飛びまわっていたが、それは精密な攻撃目標を摑むための偵察だったのだろう。

 こうした敵機の来襲は東京ばかりでなく、大阪や名古屋などの大都市にも向けられ、一月十四日、B-29六十機による名古屋地方の大空襲では、伊勢神宮まで投弾し、外宮の斎宮、神楽殿なども崩壊し、世間をあっと驚かせた。また二月十六日と十七日の東京大空襲は、硫黄島攻略を援護するため、日本近海に初めてあらわれた敵機動艦隊から小型艦載機合計1200機もが帝都周辺に来襲し、飛行場、軍需工場、軍事施設、列車、船などを無差別攻撃し、私たちを震え上がらせた。

 しかし二月ごろまで敵は頻繁に東京に来襲したが、都心にそれほどの大きな被害はなかったように思う。防空群長として家にいるときには夜昼を問わず警報時は外に飛び出し、たえず物陰に隠れて、いつ爆弾を落とされるか戦々恐々と空を睨んでいたものだが、私の見たかぎりでは敵機は上空を通過して行くだけで、大きな被害の発生は聞かなかった。

 後になって考えてみると、アメリカの最終目標はやはり東京の都心部の壊滅にあったらしい。その攻撃方法も直接目的物を攻めないで、さきに邪魔者を叩いておいて後からゆっくり料理しようという魂胆だった。いつも都心部は通過して、帝都周辺にある飛行場、飛行機工場、軍需工場、軍事施設などを攻撃し、その余波で付近はかなりの被害を出したようだが、そうした事実は秘密保持のためか、ほとんど耳には入って来なかった。

 三月に入ると敵の来襲はさらにさかんとなり、都心部にも少しずつ被害が出るようになった。三月四日の空襲では帝都城南地区に、一度に千発の焼夷弾が落とされたと聞いた。そして偵察飛来もしだいに繁くなり、不吉な予感を感じたものである。そして邪魔物壊滅の準備行動が終って、軍事力の低下した日本が反撃できなくなったと見るや、三月九日、東京大空襲をかけてきた。九日夜半から十日明け方にかけてB-29百三十機が東京の下町めがけて焼夷弾攻撃を行い、この一撃で下町は火の海となり、あらかた灰にされた。東京ばかりではない。敵は中部、近畿などの大都市も攻撃、十二日、名古屋、十四日、大阪、十七日、神戸に大空襲が行われて大被害を与えた。

 さらに敵は沖縄攻略援護のためか、日本の特攻機を恐れたのか、九州各地へ大空襲を敢行した。三月十八日から四月二十六日にかけて前後十数回、B-29百数十機、艦載機千数百機をそのつど飛ばして、飛行場、軍需工場、軍事施設などを、徹底的に攻撃したという。その回数と規模から見て、いよいよ九州上陸かと当時えらく怯えたものである。この九州空襲はその後も終戦直前まで続けられ、九州の各都市や重要施設は大被害を受けた。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田

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