建物の強制疎開と始まった空襲


 猿島郡へ買い出しに行くようになってから、建築資材を欲しがる農家がかなり多いことを知った。この年の初め、政府は防空上の目的で都内の建物の疎開を強制的に行うことを決め、夏ごろからさかんに各所で建物疎開が始まった。私の役所でも壊すことが仕事の一つになり、あちこちで役所の建物の取り壊しの監督をした。

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 取り壊しは時間がないせいか、足元を壊しておいて綱で引き倒すとか、時にはタンクで押しつぶすという乱暴なやり方だった、平時だったら跡かたづけの清掃がきちんと行われるのだが、このときは形ばかりの清掃で、大きな金物はひとつところに纏められるのだが、細かい建築資材などは散乱したままだった。

 それを見ていて、私はこの物資不足時代にもったいないと、釘、鎹(かすがい)、電球などを拾い集めておいたのだが、猿島郡へ買い出しに行くようになってから、それらが物交の材料になりそうだとわかると、それまでに倍して釘、鎹、電球のほかに、ボルト、短冊金物、電線、碍子、コード、ソケット、安全器、硝子、針金といったものを拾い集めては家に持ち帰った。そして、古釘や鎹、ボルトなどは自宅や現場で、曲がっているものを叩いて延ばし、錆を落として磨くと、立派な再生品になった。

 こんなことを現場にいるときは一日中やっていたが、仕事はほとんど人夫まかせでも、壊す工事の監督だからそれで十分役目は果たせた。そして、月曜日から土曜日まで一生懸命に再生品づくりに励むと、六、七キロの品物ができた。これを日曜日の買い出しに他の物交品と一緒に自転車に積んで持って行くと交換率もよく、再生品でも余して持って帰って来るということはほとんどなかった。食糧を手に入れるには物交品をたくさん蓄えることが前提だったから、役所の配給品とあわせてこうした建築資材をできるだけ拾い集めてためておいたのである。

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 こんなことまでして私は懸命に食糧集めに励んだが、もちろん、なかには買い出しをしないで配給だけで生きている人もいた。そういう人は私の担当する建物疎開の現場にもいた。当時、麻布の森岡町に都の大きな倉庫があって、その取り壊しを私が担当したことがある。役所では少し大きな工事なので、途中から他局の土木職員を一人応援につけてくれたのだが、それがその人だった。

 彼は私と同年配だったが、家族を田舎に疎開させ、東京でやもめ暮らしをしているのだが、決して買い出しに行こうとはしなかった。彼は買い出しを罪悪だと考えているようでもあり、不器用でどこへ行ったら何が買えるのかもわからない人のようでもあった。

 この倉庫は広大な敷地のなかに建っていて、その半分は鬱蒼たる林だったが、その林へ入ると、海の底のように暗くじめじめしていて、蛞蝓(なめくじ)や蝸牛(かたつむり)や蝉などがたくさんいた。彼は腹が空くとよく林のなかへ入って行ったが、そうした虫を食べていたようである。彼は蝉でもどんな虫でも食えるんだといっていたが、蝉を食べているところだけは私に見せようとはしなかった。

 私はこの現場でも一日中、再生品づくりに励んでいたが、そんな彼を見ると気の毒で、たまに薩摩芋でも食べろといって二、三本さしだしても、意地になってでもいるのか、決して受け取ろうとはしなかった。そのうちに彼の顔は青黒くむくみはじめ、手足は棒のように細くなって、歩くのも億劫になったのか、いつも椅子に腰かけて工事を見ていた。三ヵ月ほどで工事が終わって彼とも別れたが、しばらくして彼に会いたくなって、彼の所属へ訪ねて行ったとき、病気で田舎へ帰っているらしいと知らされただけで、その後ずっと役所では彼の姿を見かけなかった。

 私が疎開工事の現場を担当しているころ、労務者用の配給食糧のことでえらく恥をかいたことがある。役所では工事に従事する人夫に毎日黍餅を配給していた。この餅はたまに私たち職員にも配給してくれたが、大きさや作りはふつうの伸(の)し餅と同じで、色が緑黒色で、なかに雑草とか木の実が入っているらしく、何で作ったのか、ちょっと得体の知れない代物だった。

 この黍餅を切餅にして火鉢で炙って醤油をつけ、目を瞑って食べると姿形のわりにはうまいと思えるものだった。この黍餅を現場担当者が人夫の数(一人に四分の一枚)だけ、午後、役所へ取りに行って現場へ持ち帰り人夫に配るのだが、ある日、人夫頭が、
「長谷川さんは俺たちの食糧を誤魔化すから、もうこの仕事をする気がなくなった!」
 と文句をいわれたことがある。

 そういわれれば、たしかに思い当たるふしがあった。というのは、いつもその餅を何枚か受け取ると現場へ帰るまえに、私は廊下脇の湯呑所で耳を切り落とし、きちんと長方形にしたものを四つに切って持って行っていたのだが、耳を切ったのは、無理にでも屑を作ってそれを家で食べたかったからだ。それともう一つの理由は廊下を通る他局の人が、
「長谷川さん、ほんの少しでもいいからわけてくれませんか。きのうから何も食べていないんで……」
 と空腹に耐えかねて泣きそうな顔して頼まれるからだ。断りきれずに耳の幅を少し大き目に切ってやってしまう。

 一度受け取った連中はつぎの日にも必ずやって来た。そんなことをしているうちに、だんだん耳が大きくなって、肝心の切餅が小さくなる。それを誰かが見ていて人夫に知らせたのだ。いわれてみれば、たしかに悪いことにちがいない。人夫頭の一言にえらく恥じて、私は以後、餅にはいっさい手を触れず、直接人夫に役所へ取りに行ってもらったが、食べものの恨みは本当に恐ろしい。それほどうまいとも思えない一切れの餅にも人々は血眼になっていた時代だった。

 年末が近づくと戦況はさらにわがほうに非となった。しかし十月ごろまではサイレンは鳴ったが、必至と見られた空襲は東京にはなかった。けれども十一月に入ると一日から七日にかけて三回、B-29が少数機ではあるが東京はじめ関東各地に侵入した。このとき私はサイレンは聞いたが敵機の姿は見なかった。だがこれは、これから始まる大空襲の下準備の偵察に来たもので、マリアナ基地(サイパン)からのものといわれた。


画像 わが航空部隊も七日、サイパン島を攻撃、待機中のB-29二十機以上を爆破したと大本営は発表した。その後も敵の少数機による偵察は続く。私が初めてB-29を見たのは十一月二十四日の昼だった。七十機で本格的な空襲が開始されたときで、主として帝都西郊の中島飛行機工場が攻撃され、付近にかなりの被害が出たといわれた。

 その日、私は急用で電車を利用して立川へ出張していたのだが、帰りに国立で退避命令が出て線路脇の松林のなかに身を隠した。おそるおそる上空を見ると、真っ青な空に溶けこんで、白魚が泳いでいるように銀色の機体を輝かしている敵機が見えた。プロペラが四つついていたが、高空なのでそれほど大きくは見えなかった。と、突然、目の前にひらひらと飛行機の破片が落ちてきた。

 「すわ!! 敵機撃墜」と手を叩いて喜んだが、それは赤い日の丸のついた日本機の破片だった。思わず私の顔は青くなったと思う。このあと敵の空襲は二十七日、二十九日、三十日、十二月三日と続いた。年末まで多数のB-29が翼を連ねて東京上空を通過していくのを何回も見たし、その間にも三日とあけず少数機の来襲があった(十二月十三日、名古屋、十八日、大阪と空襲が始まる)。

 敵も用心したのか一万メートル以上の高々度飛行で盲爆し、日本の高射砲も景気よく打ち上げたが、高度八千メートルしか届かないといわれ、ほとんどが無駄弾となった。日本機も迎撃に飛びたって行ったが、あまりにも小さくてよく見えず、やはり一万メートルまで上がるのは大変だったようである。

 敵の最終目標は東京壊滅にあったが、初期の空襲は帝都周辺にある飛行機工場、飛行場、軍事施設等の破壊がおもで、中島飛行機工場などは何回もの大空襲を被ったといわれる。だからそのころ、東京の中心部にはそれほどの被害はなく、偵察に来る少数機が行きがけの駄賃か練習に少数の爆弾や焼夷弾を落としていく程度で、私も二度ほど自宅近くに落とされたところを防空群長として見に行った。

 爆弾の直撃(昼間)を受けたところは木端微塵で目も当てられないほどになっていたが、範囲が比較的小規模(三百平方メートル)だったし、焼夷弾(夜七時ごろ)も全員で協力して消化に努めると、二、三時間で消すことができる程度だった。しかし、空襲は高空からの盲爆で、とんでもないところへ落とされるので、いつ自分の家に飛びこんでくるかわからず、敵機が飛び去るまでそれこそ生きた心地がしなかった。

 落ち目になると、よくないことは続くもので、十一月下旬、熊野灘で空母「信濃」が米潜水艦に撃沈され、十二月七日には東海大地震があって、かなりの被害が出たが、新聞発表では「昨日の地震、震源地は遠州灘、被害を生じたところもある」、ときわめて簡単な記事しかなく、そのため私などは気にもとめなかった。

 一方、戦局は十二月中旬、大本営がレイテ決戦を放棄、勝ちに乗じた敵は大船団を組んでミンドロ島に上陸、ルソン島攻略の足がかりをつけた。物量に押しまくられた日本軍は水際を避けて山地に後退。この悲愴な現実を年末の議会で杉山陸相と米内海将が報告、比島方面は決戦を堅持するが、押され気味であり、”一億国民総特攻”の必要を強調した。日本の特攻機も続々と比島戦場の敵艦めがけて飛んで行ったが、戦局がここまで悪くなると決戦の堅持といっても、これまでの例から見ておそらく無理だった。



画像 このころ敵に対する報復手段として、アメリカ本土に向かって風船爆弾が飛ばされたという話をお伽噺かと思って聞いたことがある。しかし戦後になってそれが事実であることを知った。その爆弾は北九州の女子の手で秘密裏に作られていたといわれ、九月より翌年の二月まで約九千三百発飛ばし、その約三パーセントがアメリカ本土に落下して、多少の被害を与えたという。

 戦後、常磐線を旅したとき、車中の老人が大津あたりの海岸を指さして、「女だけで風船爆弾を上げていた」と話しているのを聞いたことがある。おそらく太平洋岸から風向を考えて飛ばしていたのだろう。だが敵のB-29による戦略爆撃に比較したら、どこへ落ちるかもわからない風まかせの子供だましにすぎなかった。

 このように戦局がいかに非となっても空腹には勝てず、買い出しだけは止めるわけにいかなかった。それで空襲の合間を見ては出かけて行ったが、年末が近づくと、それまでのように集一回は行けず二週間に一回が精一杯になった。買い出しの途中で警報を聞いたりすると、「買い出しは旅だ」などと暢気なことをいってはおられず、家へ帰り着くまでの不安は口ではいいあらわせないほど重苦しいものだった。


 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

(転記 太田)

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