生活窮迫、カボチャを買いに埼玉の栗橋へ


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 日光の旅から帰ってきたころ、日本の戦況は予期に反していっそう悪くなっていた。六月中旬、サイパン島に上陸した米軍を撃つべくマリアナ沖海戦(サイパン西方)が行われたが、わがほうは多くの空母、飛行機を失う大敗北といわれ、西太平洋の制海権は完全に敵の手におち、開戦以来最大の重大な局面となった。

 このとき大本営は、空母五、戦艦一以上撃沈破させ、飛行機も100機以上撃墜、とかなりの戦果を発表したが、同時に、敵艦隊なお遊弋、決定的打撃を与えるにいたらず西太平洋に重大影響と、ちょっぴり弱音を吐いていて、いまにして思うと、これも物資不足、とくに飛行機の不足によるものだったと思われる。

画像 そして七月中旬、衆寡敵せず、ついにサイパン島玉砕、インドのインパール作戦も失敗、退却開始(九月下旬全滅)、七月下旬、敵はグアム島(八月中旬玉砕)、テニヤン島(八月上旬玉砕)にも上陸した。欧州では六月上旬、ローマ、八月下旬、パリが連合軍に占領され、枢軸国は洋の東と西が足並みを揃えて敗色を濃くしていった。

 七月十八日、東条内閣が総辞職、私はこのときどうして辞職したのかわからなかったが、サイパンが陥落して重臣たちの動揺が激しくなって倒閣へと進み、追い出されてしまったのだと後で知った。そして下旬に小磯・米内協力内閣が発足、大和一致と神頼みのようなスローガンを掲げて勝利へ邁進したが、戦況は悪くなるばかりだった。

 米軍はさらに日本を急迫、フィリピンをめざして進攻、九月中旬、パラオ諸島のペリリュー島、モルッカ諸島のモロタイ島にも上陸、フィリピンのマニラも大空襲し、これを予期して整備を急いでいた所在航空部隊は整備途中で攻撃され、壊滅的打撃を受けたという。

 敵はさらに十月下旬艦艇七三七隻をもってレイテ島に上陸、これを援護するため陽動作戦を行い、沖縄と台湾の大爆撃を敢行した。日本もこれを迎え撃って台湾沖航空戦を敢行したが、大本営は基地航空隊の反撃により、空母十九、戦艦四を含む撃沈破四五隻の大戦果を発表、日本も飛行機三百十二機の損失というが、この戦果は重巡洋艦二隻の誤認で、久しぶりに喜んだあとの失望は大きかった。またレイテ救援のため、フィリピン沖海戦が行われた。
 
画像 わが艦隊は全力を投入して攻撃、一時は優勢に見えたが、航空機不足などで反撃は失敗、このときも大本営は空母十五、戦艦一など艦船二七隻撃沈破と戦果を発表したが、事実は世界一を誇るわが巨大戦艦「武蔵」(七万二千トン)を含め戦艦三、空母四、重巡六、駆逐艦九を失い、連合艦隊が事実上、消滅する大敗北だったといわれた。当時、比島基地の日本軍の飛行機は可動のもの陸海合わせて二百四十機で、慌てて二百三十機を比島に応援進出させたが、それでも計四百七十機しかなく圧倒的な米航空勢力に勝てるわけはなかった。

 この決戦に敗れて日本艦隊のレイテ湾突入は不可となり、無援となった所在陸軍部隊は圧倒的な敵の物量と兵力のまえに抗すべくもなく、やがて壊滅してしまったといわれる。そしてこの後、特攻機による攻撃以外に手のなくなった日本は、十月二五日、海軍神風特攻隊第一陣が出撃(十一月中旬、陸軍も特攻機第一陣出撃)、レイテ湾の敵艦船を攻撃したが、初めはかなりの被害を与えたため、驚愕した敵も、しだいに防禦火器を整備して被害を少なくし、戦果の確認がむずかしいほどその成果は急速に低下した。飛行機不足の日本は、以後、沖縄戦までこの悲惨な特攻機の出撃を続ける。そして十月下旬、中国基地のB29 百機がふたたび北九州を大爆撃した。

 戦場がしだいに日本本土に迫ってくると、国内も大変だった。サイパンが落ちると明日にも空襲があるような気がして、一億国民総武装のかけ声のもとに、防空壕掘りや軍事訓練が女子供を問わず、さかんに行われた。私の家のすぐそばに上野の山の崖があり、妻はたえず横穴掘りや軍事訓練に狩り出された。八月上旬になって砂糖の配給が停止となり、甘いものへの夢も消えた。

画像 学童の集団疎開も始まった(八月下旬、沖縄からの疎開船「対馬丸」、米潜水艦に撃沈され学童七百人を含む千五百人が死亡)、八月中旬、東京、大阪に防空備蓄米五日分の特配決まる。米五日分のほか馬鈴薯二日分、小麦粉三日分も特配、九月中に完配された。そして重要工場の疎開も急ピッチとなった。

 十月下旬、日比谷で「一億憤激米英撃摧国民大会」を開催、戦意高揚が強く叫ばれた。私なども敵のなんでもかんでも勝てばいいという物量にものをいわせて皆殺しにしようというやり方は、卑怯に思えた。互角の勝負だったらおそらく日本は負けなかったろうと思うと、実に口惜しかった。しかし、いくらそんなことをいって怒鳴ってみてもどうにもならない。そんな暇があったら一機でも飛行機を作ることだった。

 十月下旬になると兵器生産の資材不足のため、五銭、十銭の少額貨幣までが紙に変わり、ガソリン不足を補うため、いくらも採れない松根油づくりに頼るという情けない事態になった。そして十一月になると十七歳以上を兵役に編入し、十七歳未満でも志願を許可。煙草は隣組配給となって大人一日わずか六本となり、紙不足で新聞も朝刊二ページに削減。こんな不自由な時代になったのに、生産陣の食糧大口買い出しや衣料品の闇取引きが活発で、その取締まりの声がさかんにおこった。

画像 昭和十九年の後半になると、ますます勤労奉仕に狩り出されることになった。乏しい暮らしには、子供時代からの貧困のなかで育った私は耐えることができたが、我慢できないのはなんといっても空腹だった。原因は主食の配給量が決定的に少ないからだ。

 このころ、いろいろな代用品のなかに満州産の高粱(こうりゃん)が配給されたが、この赤っぽい粒の食べ方もわからなかったけれども、なにせ腹が空いているので飛びついた。米のように炊くのだが、腹をこわしたり下痢をしたりして、ひどい目に遭い、とても食べられるものではなかった(戦後になって復員してきた兵隊さんに聞いたのだが、これは赤い薄皮をとれば、けっこう食べられるし腹もこわさないという話だった)。

 そんなわけで、少ない配給量はさらに減るから、たまったものではなかった。頼りにしていた雑炊食堂も当てにできなくなり、千葉とか埼玉など、東京近辺を自転車で走りまわっても、年の前半には買えたわずかな食料も手に入りにくくなった。そして空腹の波がじわじわと押し寄せてきた。食料が底をつくと妻は六月から七月、母や自分の衣料を持ち出して、千葉の知り合いを頼って物交(物々交換)に行ってくれたが、取り締まりも厳しくなったうえ、いくら知り合いでもたびたびとなるといい顔ばかりはされず、やがてこれも駄目になった(千葉では芋二貫目=七・五キロまでは県外持ち出しが許されていたが、十九年十月下旬以降、全面禁止となった。

 サイパンの落ちたころ、町の防空団長(町会長)が家々を見て歩き、避難に危険と思われる塀や柵などの撤去を指示したが、このとき猫の額ほどの私の庭が菜園化されていないのを見てえらく叱られた。そして、カボチャ(唐茄子)なら花さえ咲けば必ず実がなるから、一つでもできるようにといって種をくれた。これまでの例からどうせ駄目だとは思ったが、万一を願って蒔いてみた。どうにか花は咲き蔓は伸びたが、実は一つもならず、万一の期待もまた夢と終った。

 東京生まれで田舎に親戚を持たない私たち夫婦は、いったいどこで不足の食糧を手に入れたらいいか途方に暮れた。そんな七月の中ごろ、隣組の常会の席で国債か勤労奉仕の割当て会議があった。その後で組長が、「私の生まれは埼玉県の栗橋だが、あそこは関東一のカボチャの生産地で、少しぐらいは買えるんじゃないかな」と話しているのを聞いた。

 栗橋といえば東武鉄道で比較的切符は楽に買える。ひとつ行ってみようと、翌日、私一人で出かけた。その日、栗橋へ降りた私は街の人にカボチャは川向こうがいいと教えられて、長い利根川橋を渡り、長閑な松並木の続く陸羽街道(現在の四号線)を古河(こが)のほうへ歩いて行った。

画像 そこはたしかに見渡すかぎりのカボチャ畑が広がっていた。道端にある大きな構えの農家に入って行った。見ると庭の片隅に大きな倉庫があって、その入口の戸が開いており、みごとなカボチャがたくさん顔を覗かせている。入口に立ってなかをうかがうと、大きな倉庫の天井にまで届くくらい何万個とも知れぬカボチャの山ができていて、その天辺で猿股ひとつの若い男が昼寝をしていた。私はここで買えなかったら大変だと、泣きそうな声を出して、少しわけてもらえませんかと哀願した。しかし、若い男は身じろぎもしないで、ただ一言、「駄目だ」と怒鳴ったきり撥ねつけられてしまった。

 とても売ってくれそうもない見幕につぎの家へ行ってみたが、どこの家でも木で鼻をくくるように愛想なく、まったく相手にしてくれなかった。家で腹を減らして私の帰りを待っている者のことを考えると、このまま引き返すわけにもいかず、いったいいつまでこんな生活が続くのかと思うと、このときばかりは情けなくて本当に泣きたい思いだった。どうしたらいいだろうか。考えながらぶらぶら歩いていると、道路から少し入りこんだ貧しそうな農家の軒下に、末(うら)なりのカボチャが捨てるように五個ほど転がっているのが見えた。私は必死に頼みこんで、やっとそれを買うことができた。

 しかし、この命から二番目に大切なカボチャも、私と一緒に利根川を渡ることはできなかった。橋の中央に野良着姿の六十ぐらいの爺さんが立っていて、前を通る私を見て「何を持っているんか」としつこく質問する。私はこの老人が取り締まりのために立っているとはつゆ思わず、涼みにでも来ているのだと思って、カボチャを少しわけてもらったのだと気やすく話すと、それは主食だから県外持ち出しはまかりならぬと厳しい調子でいわれた。

画像 私は初めこんなよぼよぼの爺さんになんでそんな権限があるのかと軽く見ていたが、そのうちに相手はだんだん高飛車になり、農業会の指令とかなんとか規則をひけらかして頑としてこちらのいうことを聞こうとはしない。カボチャはたしかに主食に指定されたことは私も新聞で見て知っていた。爺さんはその規則を盾になにがなんでもここへ置いていけといい、弱気になった私の頼みにもいっこう耳をかそうとしなかった。そのうちにどこから集まったのか、四、五人の子供が、私たちのやりとりをおもしろいドラマでも見るようににやにや笑って見ている。あまり癪にさわったからその爺(じじい)を張り倒してでも強引に橋を渡ろうかと考えたが、そうすればこの子供たちがきっと街へ注進するだろうと思うとそれもできなかった。

 進退窮まった私は、ここへ置いていくくらいなら川へ捨ててしまえと、持っていたカボチャを利根川へ投げ捨ててしまった。ところがそれを見ていた爺さんや子供は、こんどはげらげら笑いだした。私はこのときほど日本人の無慈悲を憎いと思ったことはない。

 その後、私にカボチャを売ってくれた農家の人と親しくなり、たびたび野菜の買い出しに行ったが、これに懲りて、それからというものは恐ろしい思いをしたものの、いつも汽車の走る鉄橋の上を渡って帰るようにした。そのころのカボチャは、それこそ宝ものだった。六つも床の間に飾っておけば、見ているだけで心が落ち着いた。いつまでも飾っておきたいといつも思っていたが、四日ともつことはなかった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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