足尾から庚申山探訪


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終戦前年の6月、新婚旅行で日光へ来た末夫さんだが、蜜月も関係なく、友人同伴の三人旅行にしてしまった。
前回の内容にも、「いくらなんでも若い男女が二人で歩ける時代ではなかった…」と書きながら、中禅寺湖畔では「湖畔には新婚者らしい若い二人連れをよく見かけた…」と綴り、若干の矛盾を露呈させている。
しかし、新婚旅行を口実に山旅をしたかったとも述べている。
その言い訳として友人を誘ったのだが、新妻を東京へ帰した翌日、仮病で休暇を取った友人もすぐに離脱している。
いや、少し読めば、友人も登山に同行できる立場ではなかったことがよくわかる。
やはり末夫さんは、新婚旅行よりも、本当に単独行がしたかったのだろう。
山への情熱、言い換えれば、ある種の執念すら感じる。
娯楽の少なかった時代に、自分を解放する一番の趣味、拠り所は登山が一番だったと思われる。
体内の細胞すべてが生気を取り戻す感覚はよく理解できる。
いつ赤紙が来るかもしれない不安定な時期でもあり、山へ行くたびに、これが最後かとの思いも抱えていただろうことも想像に難くない。
一途に山へ打ち込む情熱には、やはり脱帽し、畏敬や憧憬すら覚えるのだ。

つまらない前置きは止めて、それでは前回からの続き、昭和19年6月に話を戻す。
(今回は途中で分割できる部分がないので、少し長くなります)

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 私は午前十一時ごろ、友人と二人で湖畔を出発、茶ノ木平、細尾峠をへて足尾に下って一泊した。ところが宿で東京に警戒警報が出たと聞くと、友だちはあわてて東京へ帰って行った。役所では警報が出たら何をおいても出頭すべしということになっていたから、仮病を使って休んでいた彼はどうしても帰らなければならなかったのだ。私は正式に手続きをとって出て来ているのだし、どうせこんども敵機など来やしないと思っていたので、旅を止めようとは思わなかった。

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 巨大な鉱山のある足尾町は、清滝と同じように戦時色が溢れていた。街を歩く人々の足取りも忙しく、巨大な工場の入口には少年のような若い工員が兵隊のように喇叭を吹き、長い隊列を作って工事に出たり入ったりしていた。その隊列は長く、靴音は街の空気を揺るがし、夜っぴて響いていた。その慌しい靴音を聞いていると、この山のなかまで戦争が迫って来た感じがして、私の旅人生もいよいよこれで終わりを迎えるような気がした。

 私の泊まった宿は、外見こそひどい造りで商人宿のようなかまえだったが、待遇はとてもよく、米など催促されなかったし、翌日の握り飯まで夜のうちに作っておいてくれた。そして私が庚申山へ登るのだというと、鉱山専用の軽便鉄道がその途中の小滝まで行っているからと、便乗を頼んでくれた。

 翌日、軽便鉄道の時間に合わせて宿を出たが、出発がだいぶ遅れた。軽便鉄道はマッチ箱のような客車をガソリン車が牽引して、切幹(きりみき)というところから深い庚申川の谷へ入り、幾度も谷を渡って進む。渓谷の美しさはすばらしかったし、この深い谷のなかに目を見張るような一大工場街のできているのにも驚いた。

 私の隣に若い鉱山技師が乗っていた。彼はこのあたりの山のすばらしさをいろいろと説明してくれた。そして自分も山が好きで思う存分登りたいのだが、仕事が忙しくてそれもできない、近く兵隊にとられるだろうが、そうなったらもう山ともお別れですと顔を曇らせ、いま欲しいものはただ平和ですと、しみじみとした口調でいうのが印象的だった。

 徒歩よりは早い速度で走っていた軽便鉄道も途中でえんこしてしまい、それから先は歩かなければならなかった。同乗していた釣り道具をもった中年の男と一緒に歩く。彼も鉱山で働いていたが、過酷な労働で体をこわして休んでいる。いまは庚申川の奥で魚釣りをして生計を立てているのだと語った。途中の工場街で年とった外国人が笊をもって草を摘んでいた。敵国人だろうか、なにかとてもあわれな感じがした。

 銀山平で左へと庚申川の谷の奥へ入る。途中に庚申山への登山口があった。そこで魚釣りの男とわかれて右へと小道を登る。激しい急坂の連続だった。このあたりの山の深さはもの凄く、銀山平を一歩出た途端、それまで見てきた街の喧騒は密林の壁に隔てられてしまい、いっぺんに太古のような静寂な世界にかわった。

 鬱蒼たる大原始林に覆われた庚申山神社の社務所に着いたのは、だいぶ遅れて午後三時に近かった。私が訪ねていくと、老婆が迎えてお茶を出してくれた。これから山へ登るのでは、とても今日中に下山はできそうにない。そこで日程を延ばして、登山した後、ここに泊めてもらうことにした。荷物を社務所に預け、出発するとき、神主が出て来て私を神殿の前に立たせ、登山の無事を祈ったのち、鐘を叩いて山神にこれから山へ登る人がいるという合図をして送り出してくれた。

 庚申山は前面に長大な断崖を横たえて聳えている。その崖の足元に奇岩怪石の造りだした、この世のものとは思えないような奇景絶景が展開している。それを一つ一つ見ながら、断崖の終る右端から踏み跡を辿って庚申山(1901メートル)に登った。

 山頂は樹林が濃く、あまり見晴らしはよいとはいえなかった。鬼気迫る原始の世界が支配する山頂にいつまでもいることができなくて、心細さのあまりすぐ下山してしまった。社務所の近くまで降りて来ると、神主がしきりと「おおい」 「おおい」と私を呼んでいる。お山巡りに四時間もかかってしまい、あまり帰りが遅いので心配していたといい、風呂を沸かして待っていてくれた。風呂といってもドラム罐の野天風呂だったが、この深い山のなかではかえって新鮮だった。

 夜は、山が好きだという神主さんに山の怪奇現象の話をたくさん聞くことができておもしろかったが、明日はもう山を下るのかと思うと、本当に後ろ髪を引かれる思いだった。これからさき私はいったいどうなるのだろうと、またしても酷薄な戦争社会のなかに、帰らねばならない自分が悲しかった。

 翌朝、小鳥の声に目を覚ます。出発はゆっくりでよかった。十時に社務所を発つ。ここでも宿泊用の米はいらなかった。それどころか大きな握り飯を二つも作ってくれた。

 帰りは少し遠まわりをして壮絶な庚申山の原始林を歩き、追貝(おつかい)に越える林道に出てから銀山平に戻るつもりだった。その林道に出たところに鳥居が建っていて、そこで山から降りて来た人が、山苺と蕗のいっぱいつまった籠を下ろして休んでいた。六林班(ろくりんぱん)峠の奥から採って来たといい、峠はもうすぐこの先だと教えてくれた。六林班峠、そこは数年まえ鉄道省が募集したハイキングコースで一等に入選して有名になったところであり、私も一度歩いてみたいと思っていただけに、それを聞くとまだ時間も早いし、どんな峠かひとつ走って見て来ることにした。

 山の人がすぐそこだといった六林班峠が、一時間歩いても着かない。よほど引き返そうかと思ったが、このまま帰ってしまえば、こんどこそもう旅はできないかもしれない、そう思うと、もう一日、日程を延ばして峠向こうの砥沢(とざわ)で一泊し、翌日、追貝へ出て帰れば、げっぷの出るほど山旅を堪能できるのだから、たとえこれっきりになったとしても諦めがつくだろうと追貝行きを決めてしまった。そして歩き出したが、峠までさらに一時間近くもかかってしまった。

画像 六林班峠(1800メートル)は群馬・栃木両県に跨がる大分水嶺にある峠で、群馬県側は真っ黒な栂(と思われる)の大原生林が山を覆い、その重厚さは私を圧倒し身を引き締まらせた。

 峠の上から庚申山がよく見えた。静寂孤独なこの峠は旅路の果てを思わせるようなところで、心から気に入った私はここで昼食を食べ、山のスケッチなどして峠の味わいを十分に楽しんだ。

 ゆっくり休んだあと砥沢に向かって激しい急坂を一気に下るのだが、小道はだんだん悪くなり鬱蒼たる大原始林は寂として声なく、人里に近づいているはずなのに、逆に離れていくような心細さがしきりにする。途中、幾度も渡る沢の桟橋もすっかり腐って落ちており、そのつど沢を渡るのに時間がかかってしまい、砥沢についたのは夕暮も間近いころだった。

画像 村へ着いてみると、そこは朽ちかけた家がたくさん草のなかに埋まって建っているだけで、人っ子ひとりいないゴーストタウンだった。地図の上には立派な村の記号があるのに、あまりの無気味な静けさに私はいたたまれなくなって、ほかで野宿してもいいからここから早く抜け出そうと思ったが、それまであったかすかな踏み跡もこの村へ入ったとたんに消えてしまって、出口がどうしても見つからなかった。

 砥沢は栗原川源流の小広い谷間にできた明るい村だったが、私は二十分ばかり出口を求めて廃村のなかをさまよった。小学校もあり、神社もあり、大きな索道の中継地としての事務所もあり、山で働く人々の住居もたくさん建っていて、古い鉱山のあったところなのか、森林事業でもやっていたところなのか、実に大きな村だった。見るとはなしに廃屋のなかを覗くと、茶碗の破片や古い手紙の束などが散乱していて、人の住んでいたころのざわめきや生活の匂いを感じとることができる。それだけに人々の去った後は淋しさのきわみだ。そんななかに自分ひとりだけがいるということが惻々たる不安をさそって、早く逃げ出したいと気持ちは焦るが、どうしても出口が見つからない。

 そのうちに夜の闇が降りはじめて、私は今日はもうここから抜け出せないと覚悟を決めた。さいわいなことに薪は山ほどある。火をどんどん燃やして淋しさから逃れようと、一軒の家へ入ると手当たりしだいに板を剥がして土間で焚き火を始めた。こうしたところへ来て一番恐れることは、村には必ず犬を飼っていた家があったはずで、おいてきぼりを食った犬が山犬と化し、夜になって人の匂いを嗅ぎつけて襲ってくるのじゃないかという不安だった。昭和十五年の五月、南会津の奥にある博士山登山に行ったとき、山麓の琵琶首(びわくび)という小部落での経験(参照)があったからだ。あのときの恐怖がまざまざと思い出された。ここは無人郷で助けてくれる人もいないと思うと、犬が出た場合の恐ろしさは気が遠くなるほどだったが、夜半をすぎてもそうした気配はなくほっとした。

 しかし、興奮しているせいか、あまり腹は減らず、一つ残っていた握り飯を夜半近くになって半分食べただけだった。私は防空頭巾を頭からかぶって雨合羽を着込み、少しでも眠ろうとした。こうしたとき火を燃やすのは、燃えやすい小さな板っ切ればかり燃やしていたから、少したつと消えかかり、といってたくさん燃やせば炎が高くあがって家に燃え移りそうで、危なっかしくてそれもできない。炎が小さくなると家のなかはだんだん暗くなり、どこかで誰かにじっと見つめられているような気がして、淋しさのあまり、たえず薪の補給を続けたから、ほとんど寝てなどいられなかった。

 真夜中近く、屋根の上を何かが歩くような音がする。私はかつて日光の男体山へ登ったおり、その裏の志津小屋へ下ったとき、小屋を管理しているお坊さんが、夜になると劫をへた猿が屋根の上で踊りをおどるといっていたのを想い出し、猿かとも思ったが、見に行く勇気などとてもない。風で木の葉でも落ちるんだろうとも思ったが、こうした経験をまったく持たない私はその心細さに、ともすると異常な世界へと引き摺りこまれそうになって、悪いほうへと考えが傾いていった。この村はかなり大きく古い感じの村だ。その長い歴史のなかで、必ず何人かの人がここで死んで、どこかに埋められているはずだ、その墓は見当たらなかったが、この奥山に取り残されている死者の亡霊が、生きた人間恋しさに大勢集まって来て、屋根で騒いでいるようにも思えたし、ちょっとした風の唸りも啜り泣く亡者の声に聞こえて、自分の考える恐ろしさに自分自身で身の毛のよだつ思いにとらわれた。

 これらはきっと私の妄想にすぎなかったのだろうが、恐怖の極限に達すると、神経がどうにかなってしまい、妄想と現実との区別がつきにくくなってくるのだろう。もし何かのはずみで外に人の歩く音が聞こえたり、何かが倒れる大きな音でもしようものなら、私は本当に気が狂って、あらぬことを口走りながら外へ飛び出してしまったかもしれなかった。

 そんな狂気とのすれすれの時間は、実に長く、もう永久に朝が来ないような気さえした。不思議に重大な召集令状が来てはいないだろうかなどということはまったく思わず、妻は無事東京へ帰ったろうかとか、友人は役所でどうしているだろうかなどと、日常のとりとめのない、そんなことばかりを考えていた。さいわい外は静かで私を驚かすような現象もおきなかったから、懸命に火を燃やし続けてその淋しさに耐えた。

 明け方近く私は一時(いっとき、二時間ほど)眠ったようだった。寒さで目が覚めると、火はすっかり消えていた。小鳥が鳴いている。外を見ると薄明るかった。
「朝だっ!」
と、うれしくて飛び上がらんばかりに跳ね起きた私は、荷物を引っ担ぐと一目散に外に飛び出した。道などなくてもいい、とにかく川を下ることだと、栗原川へ出て沢伝いに歩いた。少し行くと沢の右手に小道を発見して、やっと廃村から抜け出すことができた。急激におそってくる安堵で腰が抜けるようだった。急に空腹を感じてきのう残しておいた握り飯を食べたが、これから先、追貝までの長い道程を考えるとそれでは足りず、空腹の恐怖がまた私を悩ました。

 栗原川の渓谷は下るにつれて峻険さを増して、とても沢下りなどできるものではなかった。そのため右手の尾根を越え、不動沢へと移ったが、この沢も深く各所に大きな滝がかかっていた。砥沢から源公平(げんこうひら)の村落まで二時間もかかった。

 当てにしていたわけではなかったが、源公平も廃村だった。営林署の造林小屋と数戸の民家が夏草のなかに立ち腐れていた。小屋のまえには、牡丹や菊や花菖蒲が人待ち顔に咲き乱れているのもあわれを誘った。一本の梅の木は青い実をいっぱいつけていた。廃屋のなかはここにも食器や一升瓶が散乱している。時間もまだ早いし、空腹の恐ろしさを思うと、縁が少し欠けていたが土鍋を探し出し、持ってきた米で昼飯を作ることを考えた。鍋は川へ持って行ってよく洗い、河原の石を積み重ねて竈を作り、米と水を入れた鍋を載せて火をくべた。鍋は扁平な石を利用して炊き上がるのを待ったが、鍋の縁が欠けているので息が抜けてしまい、半煮えのご飯しか炊けなかった。そのうえ調味料もなく雑穀混じりの配給米だったから味も素っ気もなかったが、空腹を考えると、そんな贅沢はいっていられない。腹がいっぱいになると、青梅の好きな母のことを思い出し、梅の木から三升ほど(容積にして5・4リットル)の実を失敬してリュックに入れた。

 源公平を出発して一軒家のある小森まで、さらに三時間もかかったが、それは途中の高原で山苺の大群落にぶつかり、小半時(約30分)山苺を食べ歩いたためでもあった。小森で生きている人間の姿を見たとき、大袈裟ではなく何年ぶりかで人に会ったような気がした。追貝まではそれから二時間近くもかかったが、道々、桑の実を摘んで山を下った。行く手に武尊山(ほたかやま)が美しかった。

 追貝で田圃に働く農家の人に聞くと、砥沢という村は足尾の坑木を伐っていたところだったが、原木がなくなって廃村になったと教えてくれた。私はその人の家でバスを待つあいだ一休みして、米を五升わけてもらった。この旅が、戦中、最後となった。

 この日光への新婚旅行を兼ねた旅にかかった費用の概算はつぎのとおりである。浅草―日光(三円八十銭)、日光―馬返(四十五銭)、馬返―明智平(ケーブルカー四十銭)、明智平―中宮祠(バス二十五銭)、沼田―上野(三円九十銭)、足尾軽便鉄道無料(追貝―沼田間バス運賃失念)。中宮祠一泊七円、足尾一泊三円、庚申山社務所一泊六円。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

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足尾といえばどうしても田中正造が浮かぶ。
明治45年(1912年)6月の日記には以下の文章があり、そうなんだよな! と、いつも膝を叩きたくなる。

  真の文明は山を荒らさず
  川を荒らさず
  村を破らず
  人を殺さざるべし


この言葉が、時に私のインセンティブになる。
私は50年後、100年後に生まれる人と会うことはできない。
時代のイデオロギーが多様に揺れ、縺れているいま、未来のその人たちから、あの時代に福島第一の廃炉も工程通り進行できず、帰宅困難区域の除染も進まずにその地域の「日本領土」も失い、核廃棄物の最終処分も決められず、なおかつ官僚や、資質が著しく低下している現在の政治家だけに情報を独占させておく特定秘密保護法案や、海外にまで出掛けて戦争の片棒を担ぐ安保関連法案などを止められなかった愚かな前時代人とは呼ばれたくはない。

といって何をしているかというと、何もしていない。
反原発と安保関連で数回、集会とデモに参加しただけである。
お上の監視の目があちらこちらから確かに肌に感じられ、少しだけ不安になった。
テレビなどのメディアの他にも、目立たない場所から目立たない服装の一般人らしき数人がビデオカメラを構え、舐めるようにゆっくりパーンさせ、こちらを写しているのを見た。
何だか一層、不安が増した。
その映像を元にマークされ、もし拷問でも受けたら、簡単に寝返ってしまうに違いない。
未来の人には、臆病な男で本当に申し訳ないと思う。
私は軟弱なアプレゲール(すでに死語?)なのだ。

閑話休題。
文中、軽便鉄道で初対面の鉱山技師に、「いま欲しいものはただ平和です」と言わせているが、これは昭和19年6月当時の世情を鑑みれば有り得ない発言と思われ、著書の出版時にあたり、末夫さんの願望が込められた創作ではないかと深読みした。

けれど、今回もまた末夫さんの被害妄想が炸裂したものの、無事、新妻の元へ戻ることができたので、よござんした。


※ 太田





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