新婚旅行で日光へ


 世の中がどうなっていくのか、いつ兵隊にとられるのかわからないながらも、運を天に任せてこの年(昭和19年)の春、四月二十三日、雷の鳴るなか私は結婚した。相手は私より数年後輩の同じ職場の岩島志満子という女子職員だった。

 彼女はこうした世に生まれてきた以上、日本人はみんな同じなのだからどんなことがあっても動じない覚悟はできているといってくれた。彼女の父は日本医大の先生だった人で、昭和三年に亡くなってからは女手ひとつで苦労した母(こと)に育てられた女性だった。私は三十一歳、妻は二十六歳、母は六十七歳だった。母は遅すぎる私の結婚を心配していたので、母を安心させるためにも踏み切ったのだ。

画像 結婚式はいま考えてもささやかなものだった。私は新婦を連れて上野公園の東照宮へお参りに行き、社前で神主のお祓いを受けたあと、自宅の二階に両家の近い身内十名ほどが集まって、お赤飯と小さな鯛の塩焼きで簡単な食事をしただけだった。

 赤飯の糯米と小豆は私が苦労して高い金を払って買って来たものだったし、鯛は母が長年買い続けた近所の魚利(うおり)という魚屋に無理をいってやっと手に入れたものだったが、こんなささやかなことでも当時は大変だった。

 そのとき四男の兄もまだ独身だったが、私の後すぐ結婚して、それまで三人だった私の家も、一度に五人が生活するようになり、この非常時にとても力強さを感じた。

 こんな時期になって、私は新婚旅行などは考えてもいなかった。しかし、私の旅への憧れは強く、この機会を利用してもう一度旅をしようと思いついた。役所でも職員の自由な休暇はとりにくくなっていたが、一生に一度の新婚旅行となると駄目ともいえず、数日の休暇を許してくれた。私はこのとき役所の同僚を一人連れて、三人連れで新婚旅行をしたのだが、それはいくらなんでも若い男女が二人で歩ける時代ではなかったし、私としても新婚旅行は名目で、本当は山旅をしたかったからだ。

 しかし、このころからたびたび空襲警報が鳴るようになった。防空群長としての任務もあったけれど、警報だけで敵機を見ず、いつも大したこともなかったので、留守を兄夫婦に頼み、六月末、新婚旅行に出かけることにした。

 この旅行も身形(みなり)は惨めなもので、私はズックの編上靴にゲートルを巻き、よれよれの作業服に戦闘帽、防空頭巾と小さなリュックサックを背負い、妻はもんぺに黒のブラウスを着込み、防空頭巾と水筒を肩にかけるといった姿で、まるで乞食夫婦の道行き同然だった。

 行先は比較的自由に切符の買える東武鉄道で日光へ行くことに決めた。そして日光で新婚旅行を打ち切って、妻は先に帰し、翌日から友人と二人で山越えをして足尾から庚申山(こうしんざん)を探って帰る二泊三日のコースを選んだ。けれどもこの旅も、途中でコースを変更したために深い山のなかの廃村へ紛れこみ、恐怖の一夜をすごす羽目に陥った。

 当日、日光駅に降りたとき、いつもなら観光客とタクシーでいっぱいの駅前広場が、がらんとして人影もまばらだったが、駅の食堂で思いがけなくうどんが食べられたのには吃驚した。東照宮へのメーンストリートに建ち並ぶ豪華なホテルや旅館も徴用工の宿舎にかわり、二階の窓の手摺に褌がたれさがっていたり、褌一丁の男が下を通る女をからかったり、すっかり荒れた街になっていた。

 私たちは森閑として参詣者もまばらな東照宮に参拝して日本の戦勝を祈願したのち、馬返(うまがえし)まで行く小さな電車に乗った。これも工員専用だといわれたが、無理に頼んで乗せてもらう。清滝でほとんどの人が降りた。そこは巨大な工場の建ち並ぶ一大工業地帯になっていた。全国から呼び集められた徴用工がまるで戦場のような慌しさで働いていた。

 馬返からはケーブルカーで、明智平からは木炭バスに乗り継いで、中禅寺湖畔に着いたのは夕暮近かった。湖畔には新婚者らしい若い二人連れをよく見かけたが、それらの人も私たちと同じような粗末な身形で、人目を避けてひっそりと歩いているのもいじらしい感じがした。どの顔にも笑いはなく、明日はどうなるのかわからない酷薄な現実が人々の顔を暗く無表情にさせていた。生きているいま、少しでも楽しい思い出だけは残しておきたいという諦めにも似た感情が支配していた。その日、私たちは中禅寺湖畔に泊まったが、旅館の玄関に入るまえに不愛想な番頭に、「米は持っているのか」と聞かれた。ここでも金より米が優先していた。

画像 翌日は華厳滝を見て、中禅寺湖でボート遊びを楽しんだが、このしあわせがいつまで続くのかと思うと、こうした世の中に巡りあわせた自分たちの不運を嘆かざるを得なかった。

 ボートを返しに行ったとき、そこの老婆が、「いまどきどこへ行ってもご飯は食べられないから」といって、白いご飯を丼に盛り、山菜の天麩羅を揚げて私たちの帰りを待っていてくれた。その心温まる親切は心底うれしかった。

 新婚旅行はここで終らせて、妻を一足先に東京へ帰す。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

華厳の滝といえばどうしても「巌頭之感」について触れたくなるが、厳しい時代を懸命に生きる末夫さんの姿勢とは対極にある藤村操の厭世観とは馴染まぬし、せっかくの新婚旅行にも水を差してしまうので控えることにする。

ならば東武鉄道の1720系特急「けごん」を語ってみたいと思うが、残念、ここで時間が尽きた。

※ 転記 太田


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