昭和十九年


 三陸の旅(参照)から帰ってきたころ、敵はソロモン群島北部のブーゲンビル島に有力部隊を上陸、日本はこれを阻止するために、十一月一日から五日にかけてブーゲンビル島沖海空戦を行ったが、大本営は、海戦で敵の巡洋艦と駆逐艦十四隻、大型輸送船四隻撃沈破、航空戦では空母二隻轟沈、巡洋艦等四隻撃沈、上陸用舟艇四十隻以上撃沈、敵機撃墜十機、わがほうの損害、駆逐艦一隻沈没、巡洋艦一隻小破、飛行機は陸海あわせて十八機と大戦果を発表したが、後日、判明したことは劣勢の日本はそのころ艦船も少なく、可動飛行機も三百十機しかなかったといわれる。これに対して敵はソロモンに二十数ヵ所の飛行場を持ち、その厖大な物量のまえに日本軍の勇戦も空しく、敵の上陸を許す敗北だった。

画像 また十一月下旬、ギルバート諸島マキン、タラワ両島上陸の敵を迎えて海軍航空隊と地上守備隊が激戦を展開、大本営は大戦果を発表、一戦艦、四空母、一駆逐艦撃沈破、飛行機百二十五機撃墜、わがほう未帰還十五機と発表したが、このときも敵の厖大な物量のまえに敗北。下旬になってマキン、タラワ両島の守備隊と軍属五千四百人が玉砕したという。

 一方、アメリカは太平洋戦争開始以来、飛行機が戦局を左右することに着目して大増産に励み、昭和十八年には年産八万五千五百機といわれ、この厖大な生産力と物量にものをいわせて、この年の秋ごろから大反撃を開始した。そしてそれまでの島伝い作戦は面倒と、要点奪取に切りかえ、内南洋群島めざして進攻を始めたという。

 そのころアメリカは長距離爆撃機B29を対日空襲用に準備中と発表した。まさかその飛行機に後日、あれほどまでにひどい目に遭わされるとは思わなかったが、何かいやな予感のする年末ではあった。そして十二月十三日、政府は年末年始の休暇を廃止し、役所でも原則としてそれにしたがったが、交替で休んだような記憶がある。しかし、この年も敵の空襲はなく、私の召集令状もさいわいなことに来なかった。

 昭和十九年春、新しい年になると前年が悪かっただけに、今年こそ少しは戦局も盛り返すだろうと期待を持ったが、それはみごとに裏切られた。そして新年早々、欧州のドイツ軍が退却を続け、私たちへの精神的打撃も大きかった。そして、アメリカの内南洋群島めざしての大反攻は現実のものとなり、二月初め、マーシャル諸島のクエゼリン、ルオット両島に敵上陸、数日をへずして日本軍は玉砕した。

 アメリカは息つく暇も与えず大機動部隊を動員、二月中旬、カロリン諸島の日本海軍の最大基地トラック島を大空襲、在泊艦船壊滅、飛行機も二百七十機を失う大打撃を受けた。さらに同月下旬にもサイパン、テニヤンなどのマリアナ諸島を大空襲、そのため海軍航空部隊と船舶が大被害を受け、六月中旬、ついに内南洋群島の中心基地サイパン島に敵が上陸した。六月中旬、敵はB29を使いはじめ、B24と混成二十数機で中国基地より日本本土の初本格空襲を行い、北九州の八幡製鉄所を大空襲した。

画像 東条内閣は二月のトラック島壊滅に衝撃を受け、四回目の内閣改造を行って戦局の立て直しをはかったが、戦局がここまで来ると内部の動揺は激しく効果が上がらなかったという。

 もっとひどい空襲を受けたのはラバウルだといわれ、前年の十一月より再三攻撃され、一月に来襲した敵機だけでも延べ三千二百二十機に達し、所在の日本航空部隊はよく応戦したが、その消耗は激しく、衆寡敵せず、ついに引き揚げざるを得なくなって、ラバウルは孤立無援のまま取り残された。こうした大敗北はすべて物量、とくに飛行機の不足によるもので,、「一機でも多く飛行機を」という血の出るような前線の叫びが、さらにさらに高まった。

 しかし、日本内地でもその叫びに応えるべく昼夜兼行で飛行機増産に励み、月産三千機に達するといわれたが、もとより年産十万機に迫るアメリカの生産力のまえには敵するべくもなかった。

 そんな重大な時期、陸海軍を中心に資材および生産方法を統一して一機でも多く作るべきだとの意見も出たが、海軍と陸軍の伝統的な相克のために、結局、資材の山分け案に落ち着いてしまい、敗戦の日まで飛行機増産が有効適切に一元化されることがなかったといわれた。もちろん、当時、そのような事実を私たちはまったく知らなかった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田


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