安達太良山麓の旅、芸者がくれた乾麺


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 六月中旬、福島駅からバスで土湯温泉に出て、そこから歩いて土湯峠を越し、その日は沼尻温泉で一泊。翌日、安達太良山麓を歩いて赤木平を越え、本宮駅に出た。途中の高原の風光はすばらしく、スケッチなどしていたため、平野部におりたのが少し遅くなってしまった。駅へ行くまで食糧探しをずいぶんしたが、時間が遅くなったのと気が急いていたせいか、食糧は米一升しか手に入らず、駅へ駆けこんだときは一足違いで上野行きの最終に乗り遅れてしまった。

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 翌日はどうしても役所へ出勤しなければならないので、朝一番に上野へ着く夜行列車を待つ六時間ほどを駅前の旅館で半泊した。寝すごしては大変と、毛布にくるまって横になっていると、奥の部屋ではこの非常時に宴会でもしているのか、どんちゃん騒ぎが聞えてくる。

 うつらうつらしていた夜の九時ごろだったか、廊下をばたばた乱れた足取りで歩いて来る者がいた。私の部屋の前でその足音は止まり、やがて手荒く襖を開けると、着崩れた和服姿の女がいきなり入って来た。見れば三十近い日本髪に結った芸者風の女だ。部屋に入るなり、「あんた一人かい」といって、私の前に崩れるように座りこんだ。よほど酔っていると見えて目は血走り、体が左右に揺れている。酒で充血した目で、じっと私を見据えて、
「あんた私にお酒飲ませなよ、飲ませてくれたらあんたのいうとおり、なんでもさせたげる!」
と、私の前に仰むけに寝転がってしまった。

 私はこのとき三十歳だったが、いまだに女を知らず、ミルクホールひとつ入ったことがなかったから、こうした場合、女をどう扱ったらいいか皆目わからず、困り果てて、ただじっと見つめ返すだけだった。

 そのとき廊下を二、三人の男がわいわいいいながら人を探して歩きまわっていた。どたばたした足音から、これも酔っぱらっているようだった。手荒く部屋の襖を開けて空き部屋を一つ一つしらみつぶしに調べて歩いている。さすがに私の部屋だけは客がいると思ったのか開けなかったが、「逃げちまったな!」と口惜しそうにいって、そのまま足音は奥へ消えてしまった。

 女は薄目をあけて外のようすを窺っているようだったが、男たちが行ってしまったと知ると、こんどはしきりに男の悪口をいい始めた。「男はみんな悪魔だ」と吐き捨てるようにいい、しまいには私にまで食ってかかってくるしまつ。

 私はしばらく黙って聞いていたが、さんざん男の悪口をいったあと、女は肩を震わせ、畳に顔を押しつけて泣き出した。初めはこの女がひどいあばずれだと思っていたが、泣いている姿を見ると急にかわいそうになって声をかけてやった。こんなとき女の人をどう呼べばいいのかわからなかったが、芸者さんともいえず、よく考えた末、
「お姐さん、泣くのはよしなさいよ。泣けるのはみな心が善良な証拠で、お姐さんはけっして悪い人じゃない、こんなことをいわせるのもお姐さんの歩いて来た世の中が悪かったんだ。こんな商売から早く足を洗ってまともな生き方をすれば、きっといいことがありますよ」
といって慰めてやった。

 その女は、やがて酔いが覚めたように身仕舞いを正すと、私の前にきちんと座り直し、
「あんたはやさしい人だ。私は生まれて初めてあんたのような人に会ったよ」
という。それは私の言葉に感激したというより女の体に指一本触れなかったことが、単に私を立派な男にしたてたようだった。

 それから彼女の身の上話が始まった。彼女は浅草馬道(うまみち)の芸者屋町で生まれたという。好きな男に騙されて家を飛び出したものの、男に捨てられ、それからは家へも帰れず、こうして各地を転々と酌婦暮らしをして歩いているのだといった。

 馬道といえば懐かしいところだ。十二年まえの昭和六年の不況のさなかに、私の母校である鉄道学校の先生の開いていた建築工務店のあったところで、私もしばらく通っていた。まわりが全部芸者屋ばかりのなかにぽつんと一軒事務所がある、あのあたりは当然私もよく知っていた。私がそういうと、彼女は懐かしそうに私を見て、自分の母と妹がまだ馬道にいるはずだと語り、ついでがあったら自分はまだ」元気でいることを一言伝えてもらいたいという。そしてちょっと部屋を出ていったが、すぐ戻って来て、所番地を書いた紙と一緒に、東京で配給になる乾麺の三倍もあるような大束を四つもくれたのだった。

 翌日、役所へ出勤して先輩たちにこの話をすると、芸者に指一本触れなかったということを誰も信じてはくれなかった。しかし私にはそういうことをしなかった理由が二つある。ひとつは貧乏に育って無駄な金は使えず、身を堅く処す習慣がついてしまったことと、もうひとつはそのころ恐れられていた花柳病が頭のなかに叩きこまれていたためだった。

 昭和の中ごろまでは結核と花柳病が蔓延していた。結核は運に左右されたが、花柳病だけはその人が心を堅くもてば防ぐことができた。昭和の初期のころ、警視庁ではこの撲滅に躍起となって、上野の自治会館とか区役所の公会堂などでたびたび衛生展覧会を開き、未成年者入場禁止の札を下げて、等身大の赤裸々な患部露出の人形を使って、花柳病の恐ろしさを宣伝していた。また浅草公園などでは、これが警察の人かと思えるような薄汚い背広服を着た老人などが、露天に簡単な折り畳み台を据えつけて、その上に衛生サックを並べ、
「おい君たち、オ○○○がしたかったらこれを使え。そうすれば九九パーセント恐ろしい梅毒や淋病に罹らないですむぞ」
と下品な言葉丸出しで、さかんに性病の恐ろしさを説明していた。ゴム製品を口でふくらませ、模型を使ってその使い方をおもしろおかしく話して聞かせる。私はそれを聞くのが楽しくて、浅草の先生のところにいたころ、仕事の行き帰りによく見たものだった。

 このころの役所の先輩たちは金がなくてもよく酒を呑み、そのあと、決まったように遊郭にくりこんだから、私もずいぶん誘われたものだった。見ていると、そうした人には子供のできない人が多かったようだし、病気をうつされて治療のための注射代にもこと欠き、役所の友人に金を借りている者もいるようだった。そのうえそうした悪所へ足を踏み入れる人たちのなかには、一見してそれとわかる品性のない顔つきになって、身も心も滅ぼしてしまう人も多かった。私はそうしたことを見るにつけ、不潔な男女の交渉だけは絶対に持ってはならないと固く心に決めていたのである。

 さて、私は東京に帰って馬道にその人の家を二度ほど探して歩いたのだが、どこかへ引っ越してしまったのか、二度とも見当たらなかった。そのうちに時がたち、昭和二十年三月十日の大空襲で浅草がすっかり灰になってしまうと何もかもがわからなくなってしまった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

画像  昭和18年6月12日
  野地峠から見る磐梯山

画像  同13日
  玉ノ井から見る安達太良山

それにしてもずいぶんベタな進行のエピソードである。
渥美清演じる寅次郎のステレオタイプとして読んだし、30歳にして未だ女を知らず、という部分は懐疑的な気分で転記した。
本にするにあたり、すでに奥さんや子供たちがいて、その子供たちの力添えや奥さんの励ましがあってこそ誕生した「汽車が好き、山は友だち」であることも、割り引いて読まなければいけないだろう。
事実なのか、それとも家族への配慮なのか、知っているのは彼岸にいる末夫さんのみである。
私はまったくの部外者なので、話は広げず、ここで止めるが、もし末夫さんに寅さん的な気質があったのであるとすれば、そのDNAを受け継いでいるのは、「秋山の寅」の異名を持つ次男である。
(衛生サックの商品名は「突撃一番」と覚えた記憶がある。もちろん使用したことはない)

※ 転記 太田


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