昭和十八年の山旅と、買い出しのことなど


 この年(転記者注、昭和18年)私の行った主な旅は、一月の阿武隈のほか、四月には猪苗代湖東部の山の旅で、東北本線郡山駅より八幡岳(1102メートル)、会津布引山(1081メートル)に登り、茨城街道を江花(えはな)から東北本線須賀川駅に出た二泊三日の旅では、米八升(十二キロ)入手した。六月には安達太良山麓を一周、赤城平(1050メートル)を越えて東北本線本宮駅に出る二泊二日半の旅で、米一升(1・5キロ)と大束の乾麺四把を芸者さんからもらう。八月には北那須縦走、東北本線黒磯駅より板室(いたむろ)温泉、三斗小屋温泉をへて北那須連峰(最高峰、三本槍岳1917メートル)を越え、甲子温泉に下り東北本線白河駅に出る三日半の旅で、米五升入手。八月には東北本線西那須野駅より塩原の新湯(あらゆ)温泉をへて高原山(たかはらやま)縦走(1794メートル)、東北本線矢板駅に出る一日半の旅で、食料入手不可。十月には三陸沿岸の旅、久慈線久慈駅より三陸沿岸を歩き山田線宮古駅に出る夜行五日の旅で、栗二斗五升(三十キロぐらいか)を拾い、松茸十本ほどを買ってくる(参照)――などが主な旅だったが、このほかにも食料目当ての小旅行(夜行日帰り)を二月と九月にも行った。

 このころは交通費の変化がはなはだしく、正確な運賃を記録するのをやめてしまったが、十四円以内で上野から青森まで行かれた。宿泊料は阿武隈山中で一泊二円、那須の三斗小屋温泉で五円、そのほかは三、四円ぐらいだった。

 私が旅の途中で食糧漁りをする方法は夜行で出発して、翌朝暗いうちに目的の駅を出て歩き出し、夜の明けるころ街道わきの農家に寄って縁先を借り、持っていった握り飯で朝飯にする。当時の農家は朝が早かったから、四時ごろにはもう朝餉のしたくをしていて、必ずといっていいほど味噌汁ぐらいは出してくれた。帰りぎわにお礼にいくらか包んで出すのだが、そんなとき頼めばたいてい一升か二升の米はわけてくれた。そして行きがけに少し集めておいて、帰り、山を下って平野部に出たとき、また食糧を漁るのだが、時間に余裕があって落ち着いて探せば、人々の厚意が受けられないということはまずなかった。

 そして途中で宿泊するとき、そこが辺鄙な農村地帯のようなところでは、宿に頼んでおけば、翌朝、出発までにはいくらかの食糧は集めておいてくれた。このころの都会の食糧不足はひどいものだったが、自由に旅さえできれば、何とかその不足を補うことはできたのである。この年の旅の安達太良山麓一周の旅では、ひょんなことから本宮の宿で芸者さんから大束の乾麺を四つももらったことがあったし、三陸沿岸の旅では栗がいくらでも拾えて、途中から旅は放棄して栗拾いにかえてしまったことなど、懐かしい思い出としていまもなお心に残っている。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

画像  昭和18年4月
  三森峠から阿武隈方面を望む

画像  同4月
  鬼沼峠から会津布引山を望む

※ 転記 太田

文中、簡単に触れているだけの高原山縦走の元原稿が残っている。
相変わらずこの時期特有の判読不能に近いものだが、参考資料として以下に載せる。

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック