同僚Tの失恋と、阿武隈高地の旅


 昭和十八年は前年に比べたら、比較的旅をした年だった。そのきっかけは役所の同僚Tが失恋に悩んでいたときで、彼を元気づけるために正月休みに東北本線二本松駅から常磐線大野駅へと途中にある旭岳(日山、天王山1058メートル)を越え、雪の阿武隈高地横断の旅へと連れて行ったのだが、ちょっとしたことから帰りに少しまとまった食糧を手に入れることができ、それに味をしめて、当時の食料不足に耐えかねると、ようすを見てはたびたび食糧漁りの旅に出かけたためである。

 さて、私の同僚のTは背の低い風采の上がらない男だったが、真面目で仕事はよくできた。彼はいつも孤独で淋しそうな顔をしていた。私はそうした彼が好きで役所のなかでは、とくに親しい友人の一人だった。

 そんな彼にも役所のなかに好きな女子職員がいて、片想いの苦しさに耐え切れず、去年の秋、ところもあろうに便所のなかで彼女に付け文をしたという。そのころの便所はいまと違って男女共用だった。ほかに落ち着く場所もなく、便所以外に付け文のできる適当な場所も思い浮かばなかったのだろう。彼女が便所から出て来るのを待って手紙を渡したのだが、おそらくてっきり出歯亀(痴漢)と思ったのか、彼女は手紙を見もしないで直接課長のところへ持って行ってしまった。当時、役所ではこうした風紀問題には特別うるさかったから、Tは課長に呼ばれてえらく叱責された。

 彼はその失敗談を私に聞かせてくれたが、半分泣きながら、もう生きているのが嫌になったと失恋の苦しさと付け文のやり方のまずさを訴えた。そして課長にまで睨まれるようになっては、もうこの役所にもいられないし、どこかへ行ってしまいたいというのだ。それを聞いて、私は純情な彼の行為を決して悪いこととは思わなかったし、むしろ彼の心根を踏み躙って課長に報告するというその女のやり方のほうがひどいと思ったほどだ。彼は独身だったし、結婚を前提としての彼の行為のどこが悪いのだ、嫌なら嫌と直接本人にいえばそれですむことじゃないか、そういうふうに正々堂々と彼女にいってやれと私は彼にいってやったが、気の弱い彼にはとてもできることではなかったし、その女が誰だかも教えてはくれなかったので、それ以上のことはなにもしてやれなかった。

画像 彼の淋しげな顔をみていると、本当に自殺でもするんじゃないかと思えるほどで、彼を元気づけるために正月休みを利用して阿武隈高地の旅に連れて行くことにした。

 低い山の連なりとはいえ冬の阿武隈は雪深く苦しい旅だったが、それを乗り越えたTは少し元気が回復したかに見えた。ところが、東京へ帰って来ると、彼はまた憂愁の淵に沈んでしまい、春まだ浅いころ、とうとう役所を辞めてしまった。

 その後一度、私の家へ尋ねて来たことがあったが、それ以後は戦争に狩り出されて征ったのか、音信は絶えた。

画像 私がTと旅をしたころの東北は、まだ都会では考えられないような長閑な静けさが広がっていて、食糧も豊かな感じだった。

 私は旅に出て素朴な田舎の人たちと話をするのが好きで、このときも農家へ立ち寄って一休みさせてもらったが、四方山話のなかで東京の食料不足の話をすると、気の毒がって帰りには少しだが米をわけてくれる家があった。

 そしてそんなことを三回ほど繰り返しているうちに、小豆二升と米五升(七・五キロ)を得ることができた。

 そんなこんなで首都圏での食料入手がむずかしくなったいま、私の旅も大いに変わって、食糧を主な目的としてたびたび出かけるようになっていった。

 それにこの年の秋ごろまでは軍の発表も強気一点張りで、来るぞ来るぞと覚悟していた空襲もまったくなく、私たちの緊張もだいぶ緩んでいたときで、役所でも私のように買い出しにでも行くのか休みをとる人が多くなった。そしてそうした周囲の情勢が食料欲しさも手伝って、さらに私を買い出しに駆り立てることになる。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

失恋に悩む同僚を誘って、正月早々、20キロの夜道を歩かせるとは、末夫さんの荒療治であるなと思いながら転記したが、末夫さん、この時点で未だ女性を知らぬ30歳の日本男児である。
それだけに、Tさんの行為に対する末夫さんの思考や行動はツッコミどころ満載なのだが、これも当時の時代背景が大きくかかわっているのだろう。
私なら、いくら腹が減ろうと寝正月を決め込み、体力や交通費を温存させたいとこである。
しかし、こんなところが行動派の末夫さんの末夫さんたる所以なのだ。

※ 転記 太田

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