昭和十八年、臨戦態勢の強化と山本五十六元帥の戦死


 昭和十八年、新しい年を迎えたが、戦局の悪化は決戦体制の強化をもたらし、われわれの生活にも影響して苦しい生活の幕開きとなった。

 元旦から一ヵ月二五立方メートルという、ただでさえ少ないガスが二三立方メートルに減らされて、正月らしい気分は味わえず、町で映画や演劇を見ようとすれば冷たい目で見られ、家庭ではおもしろくもない「愛国百人一首」を読まされて、遊びにさえ忠君愛国の精神一色になっていった。ジャズなど約一千種の米英音楽は全面禁止となり、学校では幼い学童まで軍の予備軍とばかり心身鍛錬に狩り出されて軍神の後に続けと誓わされたり、農村のおかみさんたちまで竹槍訓練に引っ張り出されたりした。隣組割当ての慰問袋作りも忙しく、戦時国債も否応なしに割り当てられた。

 一月十六日、戦費調達のため、十一億円の増収を見込んで間接税の大増税が決められ、そのトップを切って煙草の約六割に達する大幅値上げとなり、十九日には衣料品の点数が平均二五パーセント(年間点数は都会では百点、地方八十点でこれまでどおり)引き上げられ、もう衣服も作れなくなった。二十七日には電灯電力消費規制が強化され、軍需産業七十パーセント、平和目的三十パーセントと割りふりが決まり、このため映画館や劇場が月二回交代で休むことになった。また紙不足は用紙割当て制となって外箱廃止、単行本五割、雑誌四割減配、出版物は薄っぺらなものとなったが、三月には日本出版会が発足して統制はさらに強まっていった。

 一方、戦局は去年の年末に決定されたガダルカナル島撤退が二月一日実行に移され、七日には一万一千余名が戦場から離脱した。しかし犠牲者も二万五千名を数えたといわれる。軍はこの撤退にさいして一月二十九日と三十日、ガダルカナル島南方のレンネル島沖に米艦隊を海軍航空機をもって攻撃、戦艦はじめ巡洋艦など七隻撃沈破、飛行機三機撃墜、わがほう自爆と未帰還十機と発表したが、事実は敵巡洋艦「シカゴ」一隻の沈没(米側発表)だったといわれ、わがほうは制海権と制空権を奪われての苦しい戦いで、戦局は敗北だったという。

 それ以後、戦局は深刻な防衛と消耗戦が始まり、十八年は転進と玉砕がめだつ一方的な受け身の立場に立たされた。しかし大本営はガダルカナル島撤退にさいしても、任務終了したので他へ転進と発表して、決して負けたとはいわなかった。

 ところが四月十八日、日本が希望を託した山本五十六元帥が西南太平洋上で敵機の攻撃を受けて戦死する。このショックは実に大きかった。さらに五月二十九日、アッツ島の守備隊二千五百人が、敵の厖大な物資のまえに補給を断ち切られて玉砕する。このとき敵も千五百名余の戦死者を出したといわれたが、日本の玉砕精神には驚嘆したという。

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 こうして上り坂になったアメリカは、七月ごろから西南太平洋の島伝い作戦を展開しはじめ、つぎつぎに小さな島を取り囲むようにして砲弾の雨を浴びせたのち上陸、物資不足の皇軍は敵すべくもなく、じりじりと敗退へと追いこまれていった。

 これと足並みを揃えるように欧州でも、二月、スターリングラードで独軍降伏、九月にはイタリアも無条件降伏する。

 ソロモン(ガダルカナル)海戦以来、日本の敗北は敵の物量に負けたといわれ、政府はこれまでに倍した戦力増強を叫ぶようになった。そして人間をふくめてあらゆる物資を資源と見て、すべて戦争一本に駆り立てていった。開戦以来、南方の資源地帯を確保しながら、半年もたたないうちに制海権、制空権を奪われ、資源貧乏国に転落した日本は、船一隻、飛行機一機つくるにも事欠くありさまとなった。

 そして三月、翼賛衆議院では禊ばかりやっていても勝てないと、戦力増強の具体的決議を行い、軍需品増産に首相の指示権強化を決め、金属回収運動を強化して、家庭の鍋釜、公園のベンチの脚からエレベーターまで、金属のすべてを強制供出させることになった。

 また五月には重要産業に国民大動員、船舶、飛行機、電力、石炭などの労働力確保のため、軽易な仕事の男子の就業を制限、重要産業にふりむけて女子に代替させることになり、料理、美容、洋裁などの各種学校を閉鎖。

 六月には就業時間の制限撤廃を決め、さらに危険業務への女子供の就業許可へと拡大していった。九月には男子の就業禁止業種をさらに拡充して、十四歳から四十歳未満の者の就業禁止十七職種を決めた(事務補助者、小使い、給仕、店員、車掌、踏切番、旅館番頭、料理人、理髪師など)。そしてそのかわりに十四歳から二十五歳未満の未婚女性を勤労挺身隊として動員してこれに充てることになった。

 さらに学生の勤労奉仕を法制化し、兵器廠、軍需工場、農村などに否応なしに動員することを決めて、決戦勤労対策を発表、国民は自由に職業を選ぶこともできなくなった。

 三月になると街には「撃ちてし止まむ」のポスターが氾濫して軍事訓練や防空演習はいっそうさかんとなり、一億総武装のかけ声のもと、女性の竹槍訓練が全国で行われた。

 私の役所でも兵隊帰りの先輩が先生になって、さかんに訓練が行われたが、そんなときの先輩はとてもおっかなかったし、空腹を抱えての訓練は実につらかった。私の同僚に元将校の息子がいたが、夏のある日、一緒に訓練を受けているとき、そっと私に耳打ちして、
「年末になると、兵役が一年繰り下げになって、男という男は五体が揃っていればみな兵隊にとられるそうだ。そうなれば来年は生きていられるかどうかもわからないぜ」
と青い顔をしていう。

 その言葉を裏づけるように十月十二日、学生の徴兵猶予停止(理工系は入営延期)、十月二十一日の学徒壮行大会はきわめて盛大に行われたが、それは悲愴でさえあった。十二月には、それまで四十歳だった兵役が四十五歳まで延長され、とうとう徴兵適齢の一年引き下げは本当になった。

 さらに不足する食糧(配給だけでは年中空腹だった)を補うために空き地を利用して軒の下まで畑にしろと政府はいった。六月には東京の昭和通りの植樹帯が農園化し、ゴルフ場や公園、学校の校庭までもが畑に変わった。

 私の家でも猫の額ほどの庭に、野菜の種をもらって蒔いてみたが、作り方も知らないうえ日当たりも悪く、菜っ葉ひとつ採れなかった。とにかく食料不足からくる空腹とガス制限による燃料不足にはつくづく閉口した。

 役所の出張が市区内だと現場で発生する木端を持ち帰り、三多摩地方だと仕事の合間に食料漁りに血道をあげたが、このころになると野菜の統制もきつくなって、なかなか手に入らなくなった。いわゆる農家の売り惜しみで高く出せば少しは買えたが、六十五円の月給ではとても闇買いは長続きせず、家にある古い衣料を持ち出して物交(物々交換)し、かろうじて空腹を凌いだ。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田

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