役所の若い職員を連れて秩父の三国山鍛錬登山

 こんな世情になっても、日本が負けるなどとはまったく思いもしなかったし、少しでも体を鍛えておいて、いざというときにはお役に立ちたいと思っていた。十一月(昭和17年)の初め、ちょっとしたきっかけで、また三日ばかり心身鍛錬を目的とした山旅をすることになった。それは来年兵隊検査を受ける若い職員たちから、
「少し体を鍛えておきたいから山へ連れて行ってくれませんか」
と頼まれたからだ。

 役所でもこの大義名分のまえには駄目ともいえず三日間の休暇を許可してくれた。私は山に登ったことのない若い人たちを連れて行くので、危険は禁物と、比較的容易と思われる秩父の三国山(みくにやま)縦走のコースを選び、「山岳戦の勝利は山岳技術の獲得から」と日の丸の小旗にわざわざ書いて持って行った。

 このときは役所の若い人が三人の四人連れだったが、土曜日の午後、上野を発って下仁田駅(二円九十四銭)で降り、そこから西南へ八キロ、磐戸(いわど)までバス(三十五銭)に乗り、磐戸に一泊(二円五十銭)。翌日、塩ノ沢峠を越え十国峠街道の白井に出て、神流川(かんながわ)の深い渓谷を森林鉄道に沿って、その源流にある官行事業所で一晩泊めてもらった。

 白井から約四時間半、この神流川の壮絶さは両側を高い山に挟まれ、目の眩むような深い谷のなかを歩く。それはすばらしい渓谷で、さかりをすぎたとはいえ、美しい紅葉が清流に影を落とし、人煙まれな仙境を花やかに彩っていた。初めて見る若い人たちはその華麗さに手を叩いて喜び、奇景、絶景の連続に目を見張って、歩行も忘れて立ち止まることもしばしだった。

 官行事業所のある地域は、神流川のほぼどんづまりで、こんな山奥にと吃驚するほど大きな集落を形成していた。そしていっそう驚いたことには若い人はほとんどいなくて、年をとった人たちが真剣な態度でお国のためにと伐採事業に挺身している姿だった。その事業所に着いたとき、私は若い者を連れて気楽な山遊びに来たと思われたくなかったので、
「この人たちは来年検査を受けて兵隊に行く人たちなのです。少しでも体を鍛えておこうと、きのうからこうして山岳訓練に連れて来たのです」
と小旗を広げて説明した。下仁田から官行事業所までは約七里(28キロ)はあった。営林署の人たちも私のこの壮途を聞いて、大いに感激して激励してくれた。囲炉裏を囲むランプの下で、伐採事業の苦心談などを夜遅くまで聞かせてくれたが、ここから伐り出される木材は、おもに軍用資材として使われるようだった。

 翌日の出発は朝が早かったが、朝飯のぶんも入れて三食の握り飯を惜し気もなく作って持たせてくれた。私たちは持っていった米の一部と、一人二円の宿泊料を無理に置いて、人々の厚意に感謝しつつここを後にした。

画像 その日、三国山の頂上(1828メートル)に着いたのは事業所を出てから約六時間の後だった。事務所でよく道を聞いて行ったのだが、地図で方角をたしかめたものの、道なき小沢を詰め、ほとんど道形もない鬱蒼たる大原始林を歩いたため、あっちこっちと幾度も迷った。急な斜面に齧りついたり、木の根、岩角につかまって登ったり、それは実に鍛錬以上の苦闘の連続だったが、それだけに山頂に立ったときの喜びは大きかった。

 三国山は信州、武州、上州の三国境に跨がる山で、信州側は一面の草山であり、夜が一遍に朝になったような気がした。山頂からの展望はぱっと開け、間近に奥秩父連峰の全容を望み、遠く八ヶ岳から浅間の噴煙を望んだとき、初めて山に登った若い人たちの喜びようといったら、それはそれは形容の言葉もないほどだった。私たちは山頂で戦勝を祈願し、昼飯を食べて長い休憩をとった。

 帰りは中津川の谷に向かって山を下った。途中、ふたたび鬱蒼たる大原始林となり、激しい下りは果てしなく続いて、中津川源流の河原に降りたころは、秋の陽もだいぶ傾いていた。

 河原に道はなく、目印に積んである石を頼りに下ったが、何回も川を渡渉したために下半身がずぶ濡れになってしまった。いくら下っても山の深さはいっこうに変わらず、中津川の集落まではほど遠く感じられ、明るいうちには着けないかもしれない、今夜は野宿かと覚悟したが、濡れた衣服を見ると私自身さえ心細くなった。こんな深山での野宿と聞くと、若い人たちの顔に不安がよぎり、私も大いに責任を感じた。とにかく焚き火をして衣服を乾かそうと流木を集め出したとき、地から湧いたか天から降ったか、突然、一人の老婆があらわれた。そして、
「何をしているのだ」
と聞く。私が、
「野宿をするので焚き火をしようと木を集めているんです」
と答える。
「そんな濡れた体で野宿などしたらいっぺんに凍え死んでしまう」
といって自分の小屋へ案内してくれた。

 よく見ると、この老婆の髪は真っ白で、七十に近かった。素足に手製の草鞋をはき、木の枝を杖にして、河原の石の上を飛ぶようにして歩く。老婆はこの深い山のなかに掘っ建て小屋を造って一人で住んでいた。彼女は冬籠りのために、一日中、山を歩いて食料を集めていたのだ。
「もうそろそろ雪が来ようというのに、私に会えたということは、おまえさんたちにとって本当にしあわせだった」
と自分からいうのだ。

 その夜、私たちは持っていた米を炊き、老婆は山から採ってきた珍味をいろいろご馳走してくれた。名も知らない茸を焼いてくれたり、山葡萄で作った葡萄酒を出してくれたりしたが、その素朴な味は、いまだに忘れることができない。夜は囲炉裏にぼんぼん火を燃やし、そのまわりでゴロ寝したが、夜も更けてくるとかなり寒く、ときどき目を覚ますほどだった。老婆は一晩中眠らないで火を燃やし続けてくれたようである。

画像 翌日は握り飯を作った後の残りの米と、一人二円のお礼を置き、老婆の親切に感謝して小屋を出発した。そこは学沢(がくさわ)というところらしく、少し下ると川の左岸に二軒ばかりの小屋が建っていて、川のなかには材木を流す「鉄砲」というしかけができていた。

 そこから小道があらわれたが、中津川の集落まではそれから二時間もかかり、さらに落合には五時間もかかった。けれども途中に連続する渓谷美は燃えさかる紅葉で譬えようもなく、目も覚める錦繍の絵巻を見る思いだった。

 落合からバスで三峰口(五十銭)へ出て、熊谷経由で上野(二円六十銭)に帰って来た。

 このとき、一緒に行った若い人は翌年みな兵隊に取られ、帰って来たのは一人だけで、前途有為な青年が二人も命を奪われた。


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下図は著書出版にあたり、新たに書いたもの。
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 この山旅から帰って来たすぐの十一月十四日、汽車の切符の発売制限が実施され、土、日の臨時列車が全面廃止となって物見遊山や買い出しも自由にできなくなり、生活の足枷がいっそうきつくなったことは私にとって大きなショックだった。しかし、制限された切符も少し早く駅に行って並べば、それほど苦労しなくても入手できた。けれども生活はじわじわと真綿で首を絞められるようで、漠とした不安を感じながら昭和十七年が暮れていった。年末まで、四月のような敵の本土空襲はなく、私の召集令状も来なかった。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田




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