戦局悪化と滅私奉公


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 ミッドウェー海戦の後、勝ちに乗じた米英の反撃が開始された。昭和十七年八月上旬、ガダルカナル島とツラギ島に大輸送船団をしたがえた米英連合艦隊が上陸進攻、ガダルカナル争奪の第一次ソロモン海戦が始まった。

 このとき日本海軍が秘密裏に造っていた飛行場が完成間際にあっさり占領され、アメリカはただちに使い始めたという。

 この海戦でも敵に多大の損害を与えたといわれたが、わがほうの物量不足で敵の輸送船団にまで打撃を与えることができず、敵の増援部隊の上陸を許してしまったといわれる。

 ソロモン海戦は十一月までに三回行われたが、このころから敵はレーダーを使い出したため、いつも先制攻撃を受けるようになり、敵の厖大な物量と優秀な装備のまえにわがほうの苦戦は続き、補給困難となり、ついに十二月下旬、大本営はガダルカナルの放棄を決定、多数の餓死者を出す、またしても大敗北となった。


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 ソロモン海戦で敵艦二十四隻(12万6000トン)、日本側も二十四隻(13万8000トン)を失ったというが、わがほうの輸送船の被害は大きく、生産がアメリカに追いつけず、ミッドウェー以来物量不足がめだち、いっそう敗色が濃くなっていった。

 九月中旬、米軍はニューギニアでも反攻開始、十二月上旬にはニューギニアのバサブアの日本軍玉砕、八百名の守備隊が戦死したという。

 一方、軍の戦況報告はいつも強気一点張りで、国民は事実を知らされず、海軍の一参謀など、「天は落ちてもガ島は落ちず」と豪語したといわれるが、このときガダルカナル島では飢えと砲弾のスコールを浴びていて、十二月末、ついに撤退が決められたのだった。

 国内にあっては六月十一日、関門トンネルが開通し、工事関係者を乗せた処女列車が海底を初往復した。これはうれしいニュースだったが、後は嫌なことばかりだった。八月十五日、隣組を大政翼賛会の先兵に衣がえ、年末には常会でも「海ゆかば」を合唱させられ、滅私奉公の体制が強化された。

 八月下旬、中等学校四年、高等学校二年(いずれも旧制)と学業を一年短縮して国防に大転換させることを決定、十月上旬、陸軍防衛招集実施、空襲警報が招集の合図、在郷軍人や国民兵役の人たちを国土防衛に参加させた。

 十一月中旬、全国の百貨店20万平方メートルの売場を縮小して各営団や統制会などの事務所に提供、同じころ家庭用野菜までも登録制販売にし、年末になるとガスの使いすぎは供給停止となる。それまでの一ヵ月二五立方メートルが、来年一月より二三立方メートルに減るなど、嫌なことばかりが目白押しだった。

 そして新聞紙上には転進とか、玉砕などの文字を見るようになると、私たちさえ軍の発表とは裏腹に何か先行きに漠然とした不安を感じざるを得なかった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


※ 転記 太田


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