塩原の日留賀岳に登る


 ミッドウェーの敗戦で日本が重大な岐路に立っていたこの時期、そんなことはまったく知らない私は旅への思い抑えがたく、その年の八月(昭和17年)、奥塩原の日留賀(ひるが)岳(1849メートル)登山に出かけた。この山は徴用に行くまえの下調査で、地元の人たちから信仰の山として崇められ、道のあることがわかっていた。そろそろ休みもとりにくくなったいま、土、日を利用して内証で行って来られることもあって選んだのだ。

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 土曜の午後、上野を発って東北本線の西那須野駅下車(三円二十四銭)、古町(ふるまち)までバス(六十五銭)に乗り、その夜は塩原温泉に一泊(七円)。翌日四時起きして宿を出ると、寝巻き姿の番頭が息せき切って追いかけてくる。サービスらしいことは何一つしなかったのにサービス料七十銭とられたのには呆れてしまった。その後、番頭は日留賀岳にはうわばみが出るから用心しろといって、木の枝で作った長さ1,5メートルぐらいの杖をくれ、もし洞穴で休むようなときは、この杖を必ず立てておくようにといってくれた。それはうわばみに呑みこまれないためのお呪いのようなものだったが、山へ登るのには大いに役立った。

 私は中塩原の集落から山へ入った。踏み跡程度の小道だったが、深い原始林のなか、ほとんど休みなしの激しい急坂の連続だった。まさかとは思ったものの、うわばみの話を聞くと、あまり気分のいいものではなく、突然、飛び出してくる山鳥の羽音に幾度も腰を抜かすほど脅かされたが、うわばみどころか小蛇一匹見かけなかった。だが、苦しい登りの連続で山頂に立つまでに七時間もかかってしまった。

 山頂は小広い草原で、その一隅に石の小祠が祀ってあった。周囲360度が見渡せるすばらしい眺めだった。足下には果てしなく広がる那須野ヶ原の高原が見え、遠くには那須連峰と奥日光の山々、目の前には高原(たかはら)山と奥塩原の最高峰大左飛(おおさび)山(1908メートル)が、呼べば答えんばかりに巨大な山容を浮かべていた。雲上の楽園ともいえる頂きに立って四囲の風光を眺めていると、私はいつしか仙人にでもなったような気さえした。山頂に立つといつも行う皇軍の武運長久と戦勝を祈って万歳三唱を唱え、小一時間の休憩の後、去りがたい気持ちをふりきって山を下る。道は山頂で行き止まりになっているので、ふたたび往路を塩原温泉に下った。途中に日留賀岳神社の神主の家があったので、そこに立ち寄ると、山へ登って来た私を大歓迎してくれて、少し早い夕食までご馳走してくれた。

 私が例のうわばみの話をすると、夏になると日留賀岳には雷がよく落ちる。そのため山頂に神社も建てられないので石の祠を祀ってあるのだが、その祠さえも二つに割られてしまうこともあるくらいで、その雷の恐ろしさを宿屋の番頭はうわばみと間違えているのだろうと笑っていた。私はここで米三升(4,5キロ)わけてもらい、土産にもって帰って来たが、旅の途中で食料を手に入れたのはこれが初めてだった。この旅も本当に楽しい思い出を私に残してくれた。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田

下の画像は元原稿。

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