野菜の買い出しに三多摩へ


 北関東の旅を終え、私は何年ぶりかで役所の机に向かって仕事をするようになった。役所での仕事、それは東京府庁の経営する学校や病院、試験場などの増改築や修繕工事などで、図面を書き、工事が始まると、現場を監督して歩くことで、その現場も私の担当は府庁から遠い三多摩の農村地帯が多かった。私は以前から交通費を浮かせるため、こうした現場まわりはいつも自転車で出かけたものだが、徴用から帰ってからもそのようにしていた。私の自転車は昭和十二年に十六円で買った中古車だったが、徴用に行っているあいだも四男の兄が大切に手入れをしてくれたので、帰ってからの走りはいっそうよくなり、下手に電車やバスに乗るよりも、ずっと速くて便利だった。

画像 けれども当時の一大関心事は、一日二合三勺(340グラム)の米ではとても足りず、田舎に知り合いのない私は不足の食糧をどうやって補うか、それがつねに頭から離れなかった。私がたびたび出かける三多摩地方はそのころ、まだまだ武蔵野の面影を濃く残す長閑な農村地帯で、人家は少なく広々とした畑と雑木林が続き、秋にはたくさんの茸が採れたものである。この豊かそうな農村なら少しは食糧が手に入るような気がした。

 それで仕事の帰りに農家に寄って聞いてみると、主要食糧となると、もうそのころでも入手が厳しく金でも買えない宝ものだという(麦や芋類などは高く出せば少しは買えた)。しかし大根、人参、牛蒡といった野菜類はまだいくらでも買えた。とくに人参は千切りにしてご飯に混ぜると、爆弾ご飯といってとてもうまく、腹の足しにもなったから、私は現場へ行くごとに、こうした野菜を自転車の後ろに積んで持ち帰った。それにガスの使用制限も始まったため家ではつねに燃料不足で、いつも現場で発生する木片も野菜と一緒に自転車で運んで来られたから、自転車の効用とその威力は口ではいえないほど大きなものがあった。

 この年の夏、石神井にある女学校の新築だったか増築だったか、ちょっと大きな工事があって、現場主任以下、私たち三人が専任で工事の監督をするようになったことがある。そうなると私は現場に大きな穴を掘り、知り合いになった農家から大量に野菜を仕入れて囲っておいて、帰りにはそれまでの二倍の野菜を運ぶようになった。当時、私の家は母を含めて四男の兄との三人暮らしだった。四男の兄は飛行機のビスをつくる町工場に通っていたが、会社の古い機械を家にも据えつけて、ほとんど毎日徹夜のように仕事をしていたから、食糧補給は私が一手に引き受けることになったし、さらに近くに別居している三男の兄夫婦のところへもときどき野菜を届けてやったから、いくら運んでも余るということはなかった。

 それに役所の同僚も食糧には困っていたから、たまには少しわけてやった。そのうちに本庁からはいろいろな検査でときどき役所の人が出張して来る。囲ってある野菜を見ると彼らもすぐに欲しがったので、少しずつ持たせて帰ってもらうこともあった。そんなことをしていると、少しぐらいよぶんに仕入れても間に合わなくなり、しまいにはこの野菜の仕入れが仕事より優先するようになってしまった。そして朝現場に着くと、まず第一に自転車で野菜集めに走りまわり、工事監督に従事するのが昼近くになってしまう。そんな不都合な勤務ぶりにも、役所の人たちは「腹が減っては戦はできぬ」と、いつも見て見ぬふりをしてくれた。といっても現場周辺で野菜が手に入らないこともあり、そんなときは遠く清瀬のほうまで足を延ばすことがあった。清瀬も人家が少なく、森と畑の広がる実に奥まった草深い感じで、東京の孤島のようなところだった。自転車で走っていて、その野趣豊かな風光に旅愁を感じて、しばし見とれてしまうこともたびたびだった。下手をすると人の姿をまったく見ず、森のなか畑のなかで道に迷って、現場に帰って来るのが、午後もだいぶ遅くなることもよくあった。

 私が野菜を自転車に積んで谷中の自宅まで帰るコースは、目白通りを走って護国寺前から上野へ向かう市電の線路に沿っていた。その途中にずいぶん坂があって苦しんだものだが、その坂の途中である日の夜、制服の巡査に食料の無心をされたことがある。

画像 その日は清瀬で薩摩芋をわけてくれる家があり、現場は同僚に頼んで朝から二回清瀬へ往復した。初めのぶんは同僚にわけてやり、二回目のぶんは三十キロほど持って帰って来たのだが、二度の往復で疲れていたし、帰りもかなり遅くなってしまった。駕籠町の交差点をすぎて、その先にある急坂を自転車を押しながら登っているとき、お巡りさんに呼び止められた。見ると袋が綻びて芋が少し顔を出している。巡査は遠慮しいしい、
「芋を二、三本わけてくれませんか」
という。それを聞くと、お巡りさんも腹を減らしているのだなと、気持ちよく四本ばかりわけてやった。お巡りさんはおしいただくように芋を大切に鞄に入れると、幾度も幾度も礼をいい、交番のない安全な道まで教えてくれて、気をつけてお帰りなさいといってくれた。ちょっとばかりおかしかったが、おそらく家では子供が腹を空かして待っているのだろうと思うと、少しばかりいいことをしたような気持ちになった。こうしたことは、それから数年続く買い出しの帰り、三ノ輪と根岸でも二度ほど経験した。

 石神井の現場にいるころ、工事区域内に飯場をはって一団の土工たちが寝泊まりしていた。私は裏八甲田の旅以来、現場で働く彼らを親切に扱うよう心がけたから、彼らも私とはとくに親しくつきあってくれた。そして彼らは私が齷齪(あくせく)野菜集めをしているのを見ると、現場に大きな室(むろ)をつくり、独特の世渡りのうまさで、付近の農家から野菜なども私のぶんまで大量に仕入れて保存してくれた。もちろん代金は手間賃も入れて少しよけいに払うのだが、それによって私の食糧集めも、一週間に二回ぐらいですむようになった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

お巡りさんが自ら、『交番のない安全な道を教えてくれて云々』とは、「おいこら」の時代であっても、いかに食料が不足していたかがわかる部分である。

官憲とて当然腹は減るし、巡査程度ではたとえ法に背いても、背に腹は代えられぬ切実な時代が確かにあったということを、改めて学んだ気がする。

一般市民から食料を無心しなければ生活が立ち行かなかったお巡りさんの心情を思うと、食糧の豊富な今を生きている実感のような、やや複雑な心情も芽生えてくる。


※ 転記 大田


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