昭和十七年


 昭和十七四月上旬、下北の旅を終えて一路東京へ戻る夜汽車のなかで、帰ったら久しぶりに北関東の山を思う存分旅してみようと考えていた。しかし、家に帰りつくとそれは甘い夢であった。軍の一員から一介の地方人に戻ってみると、戦時下の都会生活の厳しさは想像以上で、そんな暢気なことをいっている場合ではなかった。第一、食糧の不足と生活必需品の逼迫には吃驚した。

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 そのあらましを記してみると、昭和十五年の五月ごろから始まった米の節約運動で外米が六割混入となり、木炭も配給、六月には砂糖とマッチも配給制となった。昭和十六年四月と五月には米と煙草の制限、十月には乗用車のガソリン使用が全面禁止になった。

 十七年になると一月には食塩と魚類、二月には衣料品、味噌、醤油までが配給制となり、ガスも使用量割当制となって、一般の生活はきわめて窮迫していった。徴用で、いままで大きな丼飯を腹いっぱい食べていたのを計算すると、少なくても一日三合以上(450グラム)の米を食べていた勘定になる。それが二合三勺(340グラム)に減らされたのでは、空腹で目がまわるような気がした。

 そうした困窮生活に加えて、さらに苦しい軍事訓練と防空演習がたびたび繰り返された。街には毎日のように出征兵士を送る万歳の声と旗の波が道路を埋め、五体揃った元気な私など、徴用から帰ったばかりなのに肩身の狭い思いをして、いつも人目を避けて横丁を歩くというせいかつを余儀なくされた。

 気持ちの落ち着くのは職場にいるときだけだったが、その役所も私が徴用に行く前とはだいぶ変わっていた。年配の働き手は大陸や軍需工場へと、少しでも収入の多いところへ行ってしまい、その穴埋めにこれから兵隊検査を受けようとする若い職員が大勢入っていた。だから、役所では私の復帰をとても喜んでくれて、月給も六十円にしてくれたし、出張手当が二十円も出たから、月の収入は軍にいたときとほとんど変わらなかった。しかし、技術の未熟な若い人たちの分まで働かされたから、仕事はそのぶんきつくなった。

 このころは、開戦以来、連戦連勝が続き、街には軍艦マーチが鳴り響き、景気のよい戦勝発表がラジオから流れ、日本中が有頂天となっていて、誰一人日本が負けるなどと思っている人はいなかった。だから生活の苦しみはあったけれど、まだ人々の気持ちには明るさがあった。こうしたなかにあって、いつ兵隊にとられるかわからないと思うと、旅への思いは募るばかりだった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

この後、末夫さんは徴用から帰ってすぐに慰労休暇を得て、長いこと憧れ続けていた北関東の南会津国境の山、枯木山と荒海山(あらかいやま)へと向かう。

※ 転記 太田


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