比企丘陵双輪行


今回の内容は昭和15年5月のサイクリングで、東京上野から埼玉県西部まで遠征した日帰り紀行だが、原稿は前回以上に判読不能で、ずっと放置したままだった。
しかしこれも太平洋戦争前の貴重な記録であって、判読が無理でも載せることにした。

私に比企丘陵についての知識はほとんどなく、場所も曖昧である。
たぶん国営の武蔵丘陵森林公園や吉見百穴、それに関越道の嵐山パーキングあたりがそうだと思う。
鉄道であれば八高線や東武線が利用できる地域だ。
3/4世紀も前のことなので、現在とはまったく違う風景が広がっているだろうことは容易に想像できる。
季節も良し場所も良しで、末夫さんにとってはペダルを漕ぐ足も軽やかに、絶好の行楽日和だったと思われる。
(もちろん、鍛えた脚力を持っていたからこその遠征である)

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転記ができない (しようと思えば数日でできると思うが、激しく面倒であるし時間もない)ので、少しだけ昭和15年の世相や出来事について触れてみたい。

まず思い浮かぶのが、この年あたりから自然発生的に盛り上がって来た敵性語排斥運動である。
よく知られているのが野球用語であり、ストライクは「よし」で、これがツーストライクだと「よし二本」になる。
ボール判定は「よし」の反語で当然「だめ」となる。
そんな窮屈な雰囲気の中で、スタルヒンは須田博(すたひろし)に改名、ディック・ミネやミス・コロンビアも改名を余儀なくされた。
スポーツ関連ではベースボールの他に、サッカーは「蹴球」で、ゴルフは「芝球」である。

音楽ではド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドがハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハに置換され、これは現在も立派に通用している。
「ド長調」より「ハ長調」の方が絶対に響きが良い。
ぜひこのまま続けてもらいたい敵性語排斥賛成の立場である。

音楽つながりで書くと、土日も休みなしで働きませうの「月月火水木金金」や、トントントンカラリンの「隣組」などが世間に広まった。
李香蘭(山口淑子)の「蘇州夜曲」も、霧島昇の「誰か故郷を想はざる」もこの年である。
両曲とも、作詞は西條八十。

パーマが「電髪」となったのは国防婦人会の女性が積極的に関わったのではないか。
街頭に割烹着姿に襷掛けスタイルで立ち、パーマヘアーを見つけると無理やり押さえつけて髪を切ったと言うし、振袖の袖も容赦なく切ってしまったと聞く。
恐るべし国防婦人会。
モガから大変身した女性も多かったことだろうに。

画像西暦使用などはもっての他で、元号表記に統一されたのは当然のことか。
だから外国の都市名も漢字を充てることになった。
ニューヨークは「紐育」、ロンドンは「倫敦」、ベルリンは「伯林」、サンフランシスコは「桑港」、ローマは「羅馬」になったのは周知のこと。
この名残が現在の漢検ブームに寄与しているわけだ。

ずいぶん不便だなと思うのが食べ物の言い換えで、カレーライスは「辛味入汁掛飯」(からみいりしるかけめし)になり、コロッケは「油揚げ肉饅頭」(あぶらあげにくまんじゅう)になる。
コロッケカレーを頼もうとすると寿限無のようになってしまうから、迂闊に頼めなかっただろう。
ちなみにフライは「洋天」とも呼ばれていたらしいから、即製の言葉ゆえに人や土地によって呼称もさまざまだったのかも知れない。

反対に良い面もある。
コスモスは「秋桜」、ヒヤシンスは「風信子」、プラタナスは「鈴懸樹」で、俳句などには欠かせない季語として定着している。

敵性語に関してはこれで終わりにし、ではこの昭和15年にはどのような出来事があったか見てみたい。

1月16日、米内内閣成立。
2月11日、皇紀二千六百年(紀元2600年)の祝典。
初代神武天皇を讃え崇敬するのはわかるが、現在の史学では架空の人物とされるのが常識となっており、なおかつ旧暦をグレゴリオ暦の2月11日と定めたのは二重の混乱を招く。
でも休日だから、理由の如何を問わず嬉しいものだ。

5月18日、日本軍が中国の重慶を空襲。
6月10日、イタリアが英仏に対し宣戦布告。
6月13日、フランス軍がパリから撤退後、翌日にはドイツ軍がパリへ無血入城。
その無血入城の日、日本では勝鬨橋が開通している。

8月1日、東京府が食堂・料理屋などでの米食使用の禁止を発令。
9月27日、日独伊三国軍事同盟が成立。
10月12日、大政翼賛会の発会式挙行。
そして国民服令によって、男性は人民服のようなカーキ色の標準服を着なさいと定められたのも10月である。

五人組のような隣組制度や、国民服によって国民の一体感、連帯感を強制させるのは、これこそプロパガンダの成果だ。
凸凹があってこそ、それぞれの個性が活きると思うのだが、全体の中に個を埋没させるのがお上の常とう手段である。

こうして見ると、たった一年で世の中の様変わりのスピードが、より危険な方向へと加速しているのがわかる。
ちなみに、世界の王貞治さんやジョン・レノンが生まれたのもこの年である。

※ 太田

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