大間崎へ、下北西部要塞地帯への旅 前編


今回は少々長いので、前後編に分けて掲載。


 尻屋崎の旅では死ぬほどひどい目に遭ったはずなのに、なぜか私には下北を恋うる気持ちが消えなかった。昭和十七年の春、突然、徴用が解除になって東京へ帰ることになったときも、このつぎは兵隊かと思うと、生きてふたたび下北を見ることはないような気がした。そして今生の別れにもう一度下北の旅をしようと思い立った。

 このときは青森から船で川内(かわうち)に渡り、あとは歩いて湯野川温泉、牛滝、仏ヶ浦、大間崎、下風呂と、下北半島西部の一周を考えた。この前の旅で懲りたので、宿舎食堂の賄いに頼んで米を三升(約四・五キロ)わけてもらい、リュックに詰めて持って行ったから、空腹の苦しさはさほどなかったが、戦時という厳しい条件の下で、要塞地帯の旅は決して暢気なものとはいかなかった。

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 四月一日の昼、住み慣れた宿舎に別れを告げると、その足で青森に出て一泊した。翌日、川内まで一番の船に乗るため早立ちとなり、朝と昼との握り飯を頼んだのだが、三食で五合(約〇・七キロ)の米をとられ、食糧不足の深刻さに吃驚した。たくさん米をとっておきながら、宿で作ってくれた握り飯は赤子の握り拳ぐらいの小さな塩結び四つで新聞紙にくるんであった。昨日の夕食も小さい丼一杯の盛切り飯で、昨日から腹を減らして一夜をすごしていたので、船が川内に着くまでに空腹に耐えきれず、握り飯全部を食べてしまった。こんどの旅もどうやら飢えの苦しみが待ちかまえているようだった。川内に着いて食事がとれないようだったら、引き返したほうが無難だと思った。

 船は陸奥湾を横切って、左手に津軽半島の山々を望みつつ進んだ。山の頂きにはまだ白い雪が残っていて、厳しい冬が居座っている感じだった。

 川内に上陸したのは昼ごろだった。この北の果ての海っぺりの町には明るい静けさのなかにも、どこか異国的な雰囲気が漂っていた。船から上がるとすぐ私は海岸沿いの街を食べもの屋を探して歩いた。しかしここも戦時下で抑圧されているせいか、街には活気がなく雨戸を閉ざした家が多かった。そんななかで一軒の雑貨屋が店を開いていた。そこへ行って聞くと、
「隣が料理屋だから聞いてごらん」
と、雑貨屋の亭主はぶっきらぼうに答えただけだった。しかし、隣の家は雨戸が閉まっていて人の気配はない。ただ真ん中の雨戸が二十センチほど開けてあった。どう見てもとても料理屋には見えず、古く煤けたしもた屋風の建物だった。家の前を行ったり来たりして見てみたが、よく見ると入口の上のほうに三十センチ角ほどの小さな板切れが打ちつけてあり、金釘流の下手な文字で「料理屋」とだけ書いてあった。板も雨戸も同じ古さに煤けていて、書いた文字も薄れていたから、よほど注意して見ないとわからなかったのだ。戸の隙間から声をかけると、なかから女の人が出てきて、
「残りもののうどんの玉が二つあるだけだが、うどんかけでよかったら作ってあげる」
という。食べられるものなら何でも結構と、喜んで作ってもらったが、空腹のせいかとてもうまかった。

 私が湯野川温泉まで行くのだというと、とてもうどんだけでは足りないからと、海から獲ってきたばかりの小魚を天麩羅に揚げて丼飯を作って食べさせてくれた。腹ごしらえができると元気が出て、湯野川まで行ってみることにした。一円でいいというのを無理に二円おいて、川内の町を後にした。

 湯野川温泉まで約四里(十六キロ)、森林鉄道の軌道に沿って川内川を溯る。安部城(あべしろ)の村落をすぎると、山は深さを増し、渓谷も険しさを刻み、ところどころに残雪を見るようになったが、おりからの好天は谷にも春の気を満たし、鶯がそちこちで鳴いていた。

 目的の湯野川温泉に着いたのは足元が暗くなるころだった。周囲を山に囲まれ、ひっそりとしたたたずまいは、いかにも秘境といった感じにふさわしかった。一歩、村落へ入るとほのかな硫黄臭があたりに漂う。旅館といっても粗末な二階建ての農家づくりで、湯治客は一人もいないようだった。出てきた人の好さそうな老婆は、米のことは何も聞かずに快く私を迎えてくれた。

 浴舎は村落のほぼ中央、川の縁に共同浴場が三ヵ所ほどできていた。夕食後、温泉に入りに行く。広々とした浴舎のなかには誰もいなかった。幽かな硫黄臭が鼻をつき、なんとも心地よい湯は、三年間の徴用生活の垢をいっぺんに洗い流してくれた。さまざまな過去の出来事を想い出しながら、思う存分湯に浸っていまのしあわせを味わった。このしあわせを一分でも長持ちさせたいため、夜半まで湯から上がることができなかった。どこかから「埴生の宿」を吹くハーモニカが聞こえる。子供のころに聞いた懐かしいメロディーだ。それは遠い旅愁をいっそう感じさせた。あまりの長湯に心配した宿の老婆が提灯を片手に見に来てくれたが、元気な私を見つけると安心してそのまま帰って行った。

 翌日、湯野川温泉を去るのが急に惜しくなって、もう一泊逗留することにした。

 二泊して三日目の朝、なお去りがたい気持ちを振り切るように早立ちした。老婆は大きな握り飯を二つも作ってくれたのに、米のことは何もいわなかった。おそらく兼業農家で米には不自由していなかったのだろう。その日、私は野平(のだいら)を越えて平館(たいらだて)海峡に面する牛滝へと旅を続けた。

 牛滝までの道のりは約五里(二十キロ)、道は往路を畑(はた)の村落まで戻り、そこから森林軌道沿いに、西へと湯野川の支流、大利家戸(おおりけど)川に沿って、いっそう深くなった渓谷を進む。軌道は冬の激しい雪崩にところどころずたずたに破壊されていて、幾度も四つん這いになりながら、宙に浮いた線路の上を渡って進んだ。

 畑から奥は人の往来した痕跡もなく、ますます深さを増す谷となり、ときどきあたりの森のなかから得体の知れない獣の唸り声が聞こえ、あまりの心細さに、幾度引き返そうかと思ったか知れなかった。しかし、道が野平越えにさしかかろうとするあたりで軌道は終っていて、そこに小さな番小屋が建っていた。なかを覗くと、中年の夫婦が昼飯を食べている。私の顔を見ると喜びのあまり飛び出して来て、引き摺るようにして小屋のなかへ連れこんだ。よほど人恋しかったのだろう。私もこの深い山のなかで人の姿を見て救われたような心地になり、一休みして昼飯を食べることにした。

 この小屋は、これから始まる伐採事業の基地となるところで、中年夫婦はこの小屋番をしており、今年になって初めて人の顔を見たといった。人恋しさを満面にあらわして、今夜はぜひ泊まっていってくれとしつこく誘う。人のよさそうな夫婦の顔を見ていると心が動き、この奥山で恐ろしい冬を越す山人の話も聞きたかったのだが、昨日、湯野川で一日よけいに泊まっているので、あまりぐずぐずしてもいられず、残念ながら一時間ほど休んで、野平越えの道を聞いて小屋を出た。

 野平は海抜二百から三百メートルほどの低い峠である。頂上は扁平で一面鬱蒼とした大原生林に覆われ、海の底のような静寂と薄暗さのなかを縫って、幽かな踏み跡が山を越えている。登るにつれて残雪が多くなり、それが道を覆い隠していた。残雪の上に大きな足跡を発見し、一瞬「熊かな」と思ったが、さっき番小屋で見た樏(かんじき)の踏み跡とわかって安心し、しばらくそれについて歩いて行ったが、やがてその足跡もなくなってしまった。密林のなかで方角もわからず途方にくれた私は、そこでしばらく道を探して歩きまわった。それにさっきから頭上の木の上を、ざわざわと何かが渡って行くような音がする。見上げても密林の葉裏が見えるだけでほかには何も見えない。私が立ち止まると音もやみ、歩き出すと追いかけるようにその音もついて来る。そうした不気味さに加えて道を見失った心細さは譬えようもなかった。

 こうしたとき、なによりも慌てないことだ。持ってきた煙草を一本抜き出して火をつけた。もし道が見つからなければ、さっきの番小屋へ戻ればいい。一休みして気持ちが少し落ち着くと、もう一度雪面を仔細に調べてみた。よく見ると、ほのかにスキーの跡らしい二本の窪みが真っ直ぐ先のほうに進んでいる。その跡について少し歩くと、大きな木の幹に「牛滝道路」と書いた赤い札が下がっているではないか。スキーの跡を辿って行くと、跡はこの峠を越し、その先端に出ると、突然、樹林を透かして目の下にきらきら輝く平館海峡が広がっていた。

 牛滝に着いたのは午後五時に近かった。私が村落に入って行くと、遊んでいた子供が礼儀正しくお辞儀をして迎えてくれた。

 しかし、この牛滝で、この旅初めての苦難にぶつかった。それは湯野川の宿の老婆は牛滝へ行ったら木下さんという雑貨屋を訪ねれば泊めてくれるはずだといってくれたが、その家を手始めに一泊を乞うて歩いたが、どこの家でも暗い座敷の奥から私を見据えたのち、
「お隣りへ行ってごらんなさい」
と示し合わせたように同じ文句で断られ、見知らぬ余所者を泊めてくれそうな家は一軒もなかったからだった。

 夕方になると、平館海峡から吹きつける風が黒雲を空に走らせ、野平の丘に向かって千切って投げるように突進して来る。霰まじりの風が私を押し倒すように打ちつけた。春まだ浅いこの北の果ての夕暮どき、夜の塒(ねぐら)が確保できない私には、ひとしお強く冬の厳しさが感じられた。いまさら野平を越えてあの番小屋まで戻るにはカンテラ一つ持っていないだけではなく、時間的にもまったく無理だった。山を下る途中で見た牛滝浜の雄大な景観も、いまはじっくり顧みる心の余裕もなく、どうして一夜をすごそうかとそのことだけで頭はいっぱいだった。

 よく見ると海岸に沿って冬の吹雪から家々を守るように、細長い粗末な納屋が建っている。私は藁をも摑む気持ちでなかへ入って行った。しかし、潮風に晒された骸骨のように痩せた薄っぺらな板がこの納屋を包んでいるだけだった。その薄い板の隙間から白い牙を剝き出しにした海が、いまにも納屋を一呑みにでもするかのような凄まじさで荒れ狂っており、情け容赦ない凍った風が勢いよく隙間から吹き抜けている。外に立っているよりさらに寒く、今夜ここで一夜を明かすのかと思うと、気の遠くなるような心細さを覚えた。尻屋崎では、果てしない原野が地獄のように思えたが、ここでは人里のなかが地獄だった。

 私はリュックの荷物を全部出し、用心のために持ってきた冬の古い背広と下穿きを全部着込み、さらにその上に雨合羽を引っかけ、空になったリュックを頭からかぶって納屋の隅にうずくまっていると、少しは寒さを防げるような気がした。しかし、あたりに夕闇が降りはじめるころになると、そろそろ感じ出した空腹だけはどうしようもない。そして、いくら冷酷な人たちでも人が飢えと寒さで死ぬかもしれないというとき、黙って見ていられるはずはないと思い、義憤すら感じて、米ぐらいは炊いてくれるだろうと、米袋を下げて納屋に一番近い家に入って行った。
「野宿するにも腹が減ってはどうにもならない。米だけでも炊いてくれませんか!」
と少し権柄づくで頼んでみた。さっき宿泊を断ったおかみさんが出てきて、怪訝な顔をしながら、
「まだこのへんにいたのですか。こんなところで野宿をしたら凍え死んでしまう」
といって、あっさり、
「お泊まりなさい」
といってくれた。おかみさんは二階の海の見える六帖に私を案内しながら、
「このへんは要塞地帯で、とくに海岸は監視が厳しく、後難を恐れて見知らぬ人はどこでも泊めたがらないんですが、あんたはそれほど悪い人にも見えないから……」
という。

 寝るまえに窓ガラスに顔を押しつけて外を見た。闇のなかにいっそう暗くなった平館海峡の海が見える。漁火ひとつ見えない淋しい海だった。窓ガラスを霰まじりの風が叩く。こんな夜に野宿をしたら、本当に凍え死んでしまうだろうと背筋が凍る思いだった。

 翌日は快晴だった。七時に目を覚まして、窓から覗くと遠く津軽半島の山々が見渡せた。春霞のなかにおぼろにその輪郭を海上に浮かべ、それを背景に子供たちが一列になって旗を振り立てて学校に行く姿は戦時下を忘れさせるほど平和な光景だった。
「今日は風が強そうだ。長後(ちょうご)まで行く郵便船も来ないだろう」
と、階下で話す声が聞こえる。朝飯を運んで来たおかみさんが、
「山の子たちを乗せて佐井まで汽船が出るんです。見知らぬ人が乗っていると、向こうに着いてうるさく質問されると思うけれど、それでもよければ便乗を頼んであげようか」
といってくれたが、仏ヶ浦を見たい私はそれを丁重に断った。

 朝食まえ、私はしばらくのあいだ外に出てみた。低い山ひとつ越えただけなのに、牛滝の村落は日本的な湯野川の村とはまったく違って、北欧的な感じのする家々が並び、その姿が大変めずらしかった。ほとんどの家が横板貼りのペンキ塗りで、周囲に飾りのある上げ下げ窓のついた明治時代の鹿鳴館を思わせる造りだった。陸上との交通をほとんどせず、もっぱら海上交通に頼っているこの村は、下北半島のなかの異国といった感じがした。溶けてしまいそうな白い砂が海岸まで続いており、村は芥ひとつ落ちていない清々しさだった。

 朝食後、私は米三合と少し多めに宿泊料(三円)を払って、九時ごろ宿を出た。きのう落ち着いて見られなかった牛滝浜へ出てみる。海岸に立ったとき、私は眼前に展開する、その壮絶なる海の景観に万感の想いを禁じざるを得なかった。扇形に入り込んだ小さな入江の両側の山は、海蝕と風蝕によって抉り取られた山脚が断崖絶壁となって続き、上部を海中にのめりこむばかりに突出させ、永久にやめようとしない怒濤に洗われて、いまにも崩れ落ちそうなその急直な山脚は、あたかも巨鬼の断末魔を見るようだった。抉り取られた大小無数の洞窟が断崖の各所にかっと口を開け、その壮絶さはこの北の海だけでしか見ることのできない海と山との激烈な闘争の図絵であった。

 大廈高楼(たいかこうろう)がすっぽり入るような大洞窟の下で、三人の青年がコールタールの入った大きな鉄鍋に漁網を入れて染めていた。彼らはコールタールの気触(かぶ)れから身を守るため体を包帯で巻いている。私が傍に立って見ていると、
「お客さんはどこから来たの」
と聞かれた。
「東京から景色を見に」
と答えると、さも不思議そうな顔をして、
「こんな景色のどこがいいんです。自分たちはここで生まれ育ったのだけれど、本当に冬は恐ろしくて嫌になる。この洞穴を一呑みにするような大きな波と、朝から晩まで続く激しい吹雪の連続で生きている気がしないのだ」
と、生活の苦痛を訴え、南の国をしきりに恋しがっていた。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

話が中途半端で終わってしまったが、これで約半分の長さになる。
次回の後編へ続く。

※ 転記 太田


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