秋の下北、尻屋崎の飢餓自転車旅行


文中に「腹が減って死にそうだ」とあり、なおかつタイトルの「飢餓」とは、たかが一日のことなのに、あまりにも大袈裟ではないかと思うのは飽食の今を生きる現代人の感覚であり、当時の食糧事情を鑑みれば仕方ないことなのだろうと想像する。
(下北なので「飢餓海峡」を意識したか)

それにしても末夫さんの腹はよく減るなあ、と感心しながら転記したが、空腹の状態が日常だった時代であることを差し引いて考えねばなるまい。
(予告、次回も末夫さんの腹が減ります)


 昭和十六年の秋、休日を利用して軍の自転車を借り、下北半島の一方の北端の尻屋崎へ日帰りのサイクリングに出かけた。このときは本当に苦しく飢え死にするかと思った。

 大畑線の田名部の駅まで、前日、汽車で自転車を送っておき、朝一番の野辺地発の列車に間にあわせるべく暗いうちに宿舎を出て、東北本線の下田駅から列車に乗った。しかし、この年もひどい冷害で、この地方はとくに米が不作だった。農家でも一人当たり一日二合三勺でかろうじて生きていたのだが、私は軍にいるおかげで食料に不自由なく、そんなことさえまったく知らなかった。それに日帰りでゆっくり行って来られると思い、途中で昼飯くらいは食べられるだろうと、ほとんど食べものを持たずに出かけたのだが、それが私に死ぬ思いをさせたのである。

 田名部の駅から私は自転車を乗り出したのだが、津軽海峡に出るあいだにいくつかの低い丘を越える。そのとき最初の小難が待ちかまえていた。最後の丘を下るとき、急に自転車のブレーキが利かなくなってしまい、車はどんどん加速をつけて、曲がりくねった山道を下っていく。もう駄目かと思っているとき、坂の途中に太い杉丸太が通せん坊でもするように道を塞いでいた。山道はなんとか走り下れても、これだけは避けようがない。観念して、激突。自転車もろとも二メートルほど跳ね飛ばされたが、さいわい怪我はなく自転車も泥除けが少し曲がったくらいだった。

 ところが、杉丸太はもののみごとに真っ二つに折れてしまっている。真っ昼間、こんな交通妨害をするとはけしからんと、ぶつぶついいながら軍属服についた泥を払っていると、すぐ横に掘っ立て小屋があって、そこから六十近い老人が出て来て、えらい見幕で文句をいう。そして、丸太の代金五十銭を払えというのだ。癪にさわった私は交通妨害を理由に逆にねじこんだが、この地方では野山に牛を放牧しているので、柵がわりに道を塞ぐのは当たり前のことだと逆襲された。そんなことはまったく知らない東京育ちの私は老人のいうことにも一理あると思って、それ以上のことはいえなくなってしまった。

 老人は私の腕を摑まえて、とにかく五十銭払えといってきかない。押し問答のあげく、老人の理屈に負けて、とうとう五十銭を払わされてしまったが、金を受け取ると、急に態度が変わって「なかでお茶でも飲んでいきなさい」という。なかへ入って囲炉裏の傍でお茶を飲んでいると、裏の木戸を開けて、十八くらいの色白の娘さんが入ってきた。赤い前掛けを二つに折り、そのなかに赤い草の実が入っている。老人は、
「何もないが、おいしいから食べてごらんなさい」
といって私にもわけてくれた。一粒口に入れると甘くてとても美味だった。私はその娘さんが老人の子供かと思っていたが、聞いてみるとそうではないという。老人は、
「すぐこの丘の上の鉱山の親方の娘だったが、親方が兵隊にとられた後、鉱山が成り立たなくなって、この娘だけを残して、母親や他の従業員はみんな夜逃げをしてしまったのだ」
と、哀れな身の上を私に話してくれた。その娘は目鼻立ちの整った色白の利口そうな顔立ちだったが、ひどく足が不自由だった。老人は、自分ももう年だから、いつどうなるかわからない、自分のなくなったあと、この娘がどうなるかと思うと心配でたまらないと目頭を押え、思いつめた調子で、
「どこでもいいから、この娘を連れて行ってくれないか」
という。いわれた私は本当に吃驚した。私はいま徴用で八戸に来ている身で、どうすることもできないと訳を話して断ったが、何かこの娘さんの将来に、いいしれぬ哀れさを感じて、なんとかしあわせにしてやりたいものだと思った。八戸へ戻ったら賄いの夫婦にでも頼んで食堂で使ってもらえないものだろうかと考えながら、帰りにまた寄りますからと挨拶して早々にここを出発した。

 津軽海峡の入口という海っぺりの集落に着いたころ、私はかなり腹を減らしていた。途中で昼飯ぐらいは食べられるだろうとたかをくくってここまで来たのに、村落もまれにしかなく、どこの家も雨戸をぴったりと閉ざして人気もなく、ゴーストタウンのような静けさがあたりを支配していた。取りつく島もなくそこを通りすぎる。道はやがて消えてしまって海岸の砂浜の上を走るようになると、車輪が砂にとられて空回りして進まないので押して歩いた。そのため空腹は加速度を増していった。

 餓死寸前の苦しい目に遭ったのは、実にそれから先だった。津軽海峡に面したこの海沿いの風景は、あまりにも素朴で勇壮だったが、人の姿をまったく見ず、有史以前の原始の世界へ来たような気さえした。母衣部(ほろべ)川を渡ると、また道があらわれて、しばらく走ったところで岩屋という小村落に着いた。しかしここにも人の気配はまったくなく、雨戸をぴったり閉ざして、まるで人の死に絶えた村といった感じで、当てにしていた昼飯など、食べさせてくれそうな家はどこにも見当たらない。

 そのなかで砂埃をかぶった皿の上に腐ったような古いリンゴが三つ、庇の下に置いてある家があった。入口の雨戸がその家だけ十五センチほど開いていたが、なかは真っ暗でいくら呼んでも人は出て来ない。空腹のあまり、私は皿の上に小銭(二十銭)を置き、そのリンゴをもらって食べながら先へ進んだ。しかし、それから先は村落はまったくなくなり、人影のないシベリアの大荒原を見るような、果てしない草の原となった。おりから曇っていた陰鬱な空からは冷たい秋雨が降り出してきた。瞬くうちに道は泥濘と化し、泥が車輪に挟まって、ふたたび自転車では走れなくなった。先刻、食べたリンゴも、こうしたときの空腹にはさほどの足しにはならなかった。

 ふたたび襲ってきた空腹と疲れは足に踏ん張る力を与えない。何度も何度も泥濘にはまっては滑って転んだ。着ていた軍属服は泥だらけになり、転ぶたびに自転車に引っかけ、いたるところを破いて見る影もない。引き返せばよかったのだ。しかし、この空腹と疲れでは、とても田名部まで戻れそうになかったし、行く手はるかに尻屋崎の白い灯台を望んだとき、とにかくそこまで行けばなんとかなるだろうと勇を鼓して進んだ。

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 やっとの思いで灯台に辿り着いたときには、安堵と疲れと空腹で、自転車を門の脇に放り出し、そこにしばらくうずくまってしまった。私は灯台を見るのが好きで、それまでにずいぶん灯台巡りをした。久恋の尻屋崎灯台が目の前にあるのに、いまはまったく目に入らず、一息つくと官舎の玄関に駆けこんだ。そして何も考えずにただ、
「飯を食わせてください!」
と怒鳴った。なかから衛生兵のような白い上衣を着、軍帽をかぶった若い男が出て来て、胡散臭そうに私を見ている。おそらく乞食とでも思ったのだろう。その男は、
「今日は新任の灯台長が来る日で、みんな田名部の町へ出迎えに行っていて留守だから何もやれない」
と即座に断られた。しかし、私にしてみれば、ここで何か食べさせてもらえなかったら、それこそ飢え死にだと思ったから、土間に土下座して執拗に哀願したのだが、私のいうことなどいっこうに聞こうとしない。

 その男は、この非常時に乞食の一匹や二匹死んだって大したことではない、おれたちだって腹を減らしているんだという非常に厳しい顔をし、ぐずぐずしていると摘み出すぞという怒りの表情さえあらわにして、いまにも私の襟髪を摑みそうになった。そのあまりの見幕に、私も諦めざるを得なかった。

 這うようにして外に出たが、灯台のまわりには人家ひとつない。見渡すかぎりの海と草の原で、ほかに救いを求めるものは何もなかった。すばらしい風景も空腹の前には何の価値もない。

 帰りは死の行軍よりもひどかった。空腹と疲労、それに追い打ちをかけるように冷たい秋雨が鋭い刃物となって私の体に切り込みをかけてくる。見渡すかぎりの草の原、それはこれまで歩いたどんな深い山のなかより恐ろしい地獄に見えた。自転車は泥で動かず、やっと泥を落としてもすぐにまた動かなくなった。ここでも幾度自転車を抱えてひっくり返ったことか。手も顔も傷だらけ。自転車を捨てようと何度も思ったが、軍のものとなると、そんなことはとてもできなかった。もう歩けなかった。私はもうすぐ死ぬだろう。無意識のうちに、草原に横倒しになっていた。放牧の牛が一頭私の傍へ来て見ていた。

 泥のような深い眠りのなかで私は揺り起こされた。ふと目を開くと、そこに見知らぬ男がしゃがみこんで私の顔をじっと覗いている。
「どうした!」
と声をかけられたとき、体のなかに湯のような暖かいものが染み渡るのを感じた。私は泣きながら、
「腹が減って死にそうだ」
というと、その人は、
「それは大変だ、残飯ならあるから」
といって、私を抱き抱えるようにして、その人の家へ連れて行ってくれた。

 その人の家は小さな鉱山の飯場だった。暖かいストーブが景気のいい音をたてて燃えていた。ところが、出された飯は本当の残飯だった。食べ残した御菜が混ぜご飯のように飯のなかに混ざっている。骨だけになった魚もあった。だが、汚いなんていっていられない。夢中で食べた。しかし、いくら残飯でも、私の空腹は六分目までしか満たせなかった。

 しきりに今日は一晩泊まっていったほうがいいと、その人は心配そうにいってくれたが、今日中に帰らないと脱走者と間違えられて事務所に迷惑をかけることを思うと、どうしても今日中には帰りたかった。それに六分目でも空腹がおさまると、少しは元気が出て、どうにか帰れるような気がしたのである。親切に深く感謝して私はふたたびそこを出発した。飯場の人々が入口に立って心配そうに、いつまでも見送ってくれた。

 雨は依然として降り続いていた。だが、ものの四キロも行かないうちに、また猛烈な空腹と疲れが襲って来た。自転車はとうの昔にものの役に立たず、押しても引いても私の体と同様にいうことをきかなくなってしまっている。さらにもっと恐ろしいことは、夜の闇が音もなく降りて来て、あたりの景観を溶かし始めたことだった。この北の果ての秋は夜になると、いっぺんに冬の厳しさに変わってしまう。雨は氷の針となって私の体に突き刺さった。

 駄目だ、あの飯場に戻ろうと思ったときはもう体の自由がきかなくなっていたし、夜は完全に私の姿を人から見えない別の世界に連れこみ、闇のなかに溶けてしまった道は手探りでもわからなかった。こんどこそ確実に死ぬと思った。闇のなかに座って意識だけはしっかり持っていたが、漆黒の闇はともすると意識までも溶かそうとする。振り返ると、はるか闇のかなたに尻屋崎の灯台の灯が、私を葬送する鬼火のように明滅していた。

 しかし天は、私にもう一度生きるチャンスを与えてくれた。勇ましいエンジンの響きをたてて、片目のトラックが走って来たのだ。私は道の上に上半身を起こすと、轢き殺されるかもしれない危険も顧みず、座ったなりで手を振った。

 トラックは、私の目の前で急停車した。助手席から大男が顔を出して私を見つめている。荷台には半纏を着た男が三人乗っていて、荷台の上から私を見おろしていた。ヘッドライトが闇を押しのけて、私の惨めな姿をさらけだしていた。
「田名部まで乗せてください!」
と私は手を合わさんばかりにして頼んだ。大男が降りて来て、なをも仔細に私を見ていたが、やがて荷台の男たちに乗せてやれと指図した。半纏の男たちは私と自転車を荷台に担ぎ上げてくれた。荷台の上にはまだ他に三人ばかりの男が秋雨にそぼ濡れて、寒そうにうずくまっている。何か異様な感じだった。

 車が走り出して、これで助かったとほっとしたのも束の間だった。半纏の男の一人が、
「どこへ行くんだか知らないが、先がなかったらおれたちと一緒に来ないか」
と誘う。この車はこれから大畑に出て、船で北海道へ渡る、金と飯には不自由はさせないという。ここにいる連中は、この奥の鉱山から逃げ出して来た男たちで、これから行く先はもっといいところだから、私にも一緒に来いとしきりに誘うのだ。私もどこからか逃げ出して来た男と思われたようだった。私は考えるふりをして返事を引き延ばした。嫌だといったら降りろといわれそうで、すぐには返事ができなかったのだ。しかし、トラックは速かった。

 瞬くうちに田名部の町に着いた。町の灯を見たとき、私は恐ろしかった地獄から、やっと抜け出せた喜びを噛みしめることができた。ここまで来ればもう大丈夫と、
「一緒に行ってみたいのだが、私はいま軍に徴用されている身で、このまま皆さんと行ってしまったら、脱走者となり、皆さんにもえらい迷惑がかかるのではないでしょうか」
と逆に質問の形で聞いてみた。そして、かぶっていた戦闘帽の泥を払い除けて、星のマークを見せてやった。軍という言葉を聞いて男たちは吃驚したようだった。大畑へのわかれ道で、何もいわずに私を車から降ろしてくれた。

 その夜、私はほうほうの体で遅く宿舎に帰ったが、この時期の下北半島の原野の恐ろしさをしみじみと噛みしめた。せっかく灯台を見に行ったのに、何も見ずに帰って来てしまったが、この恐ろしさこそ一つの風景だったような気がする。宿舎に帰った私は、それから二日ばかり熱を出して寝込んでしまった。

 数日たって、私がまた元気を取り戻したころ、そんなわけで帰りに寄れなかった番小屋の娘さんのことを思い出し、事務所の賄い夫婦に頼んでみたが、足が不自由ではこの仕事はとても無理だと断られた。いまでも娘さんのことを思い出しては、しあわせでいてくれればいいがと思うのだ。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田


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